ひとりでママになると決めたのに、一途な外交官の極上愛には敵わない
拓翔を抱っこして病棟の廊下を歩く。土曜日の午後一番は、入院患者以外の人の往来が多い。面会に来るにはいい時間だからだ。
「じーじ、ねんね?」
「どうかなぁ。今日は起きているかなぁ」
祖父は昨日ほとんど眠っていた。手術の翌日で疲れていたのだろう。
病室の前までたどり着く。大きな引き戸は全開になっていて、手前の間仕切りカーテンが引かれているのが見えた。
四人用の部屋だが、今入院中の人は祖父ともうひとりだけ。奥のカーテンが開かれているため、同室者が外出中だとわかる。
部屋に足を踏み入れたとき、カーテンの内側から声が聞こえてきた。
「何度来てもわしの心は変わらん。不誠実な男にかわいい孫とひ孫は任せられん」
え……? 祖父は誰と話しているの?
おのずと足が止まった。よく見たらカーテンの下から黒いスーツの足が見えた。あれ? と思うと同時に聞き慣れた声がした
「何度追い返されても諦めません。もう二度と、私はさやかさんを手離さないと決めました」
喉がひゅっと音を立てる。どうしてかれがここに。
次の瞬間、腕の中から拓翔が飛び出すようにして駆けだした。
あっと思ったとめきには小さな手がカーテンをつかみ、思いきり横に引いていた。
「ぱぱぁ!」
「拓翔」
彼は足に抱きついてきた拓翔を見たあと、こちらに顔を向けた。
「さやか」
「櫂人さん……」
奥に視線を移すと、不機嫌に口を引き結んだ祖父と目が合う。
「さやか、おまえからこの男に言っておいてくれ。何度来ても無駄だと」
祖父に言われて初めて、櫂人さんが何度もここに来ていたことに気がついた。きっと仕事の後に寄ってくれていたのだろう。そのせいで帰宅が遅くなったのだ。
「おじいちゃん、お願い話を聞いて。櫂人さんは私と拓翔のことだけでなく、おじいちゃんや店のこともちゃんと考えてくれているわ」
「実は」と言って、英国大使から行楽弁当の注文を頼まれたことを話す。祖父は驚いて、なぜもっと早く教えなかったのかと言いかけて口を閉じた。店の休業の原因が自分にあることを思い出したのだ。
決して弱みを盾にこちらの言い分を通らせたいわけではない。ただわかってほしかった。櫂人さんは祖父が思っているような軽薄な人ではないということを。