この一秒に、愛を込めて
気になる人
いつもと変わらない朝。この時間帯はまだ人の数もまばらで、カウンターにやってくる人もほとんどいない。心地良い静けさの中、新しく届いた本の情報をコンピューターに登録する作業もおおかたやり終えてしまった。
家から電車で七駅先にある、市立図書館。そこが今の私の職場だ。今の、というのはつまり、前は違ったということで、私は三年前までは出版社で働いていた。少し体調を崩してしまった為、二年前に退職し、それからほぼ一年間は働けなかった。そして一年前、ようやくこの図書館の司書として再出発を切った。学生時代に取得していた司書資格が、思わぬところで役に立った形だ。前職が出版社で、今は図書館。私はどうも書籍に囲まれていたいらしい。
出版社に戻れなくなった時は正直、落ち込んだけれど、今は図書館で——正確には「この」図書館で——働けて、本当に良かったと思っている。その理由は、あの人。
視線の先、一般書の棚で本を眺めているその人は、半年前くらいから頻繁にここを訪れるようになった。もっと前からいたのかもしれないけれど、少なくとも私が彼を認識し始めたのは半年前だ。少し癖のある髪に無精髭。服装は特別おしゃれではないものの、いつもきちんとした格好をしている。あれでおしゃれだったら、緊張して本を渡す手が震えてしまうかもしれない。
彼の名前は進藤隼汰。もちろん、図書館カードを見て知っただけだ。進藤さんはいつも偏った本を大量に借りていくので、スタッフの間でも有名だった。例えばある時は、パリのオペラ座に関するもの、またある時は宇宙や天体に関するもの、そしてまたある時は麺類に関するもの……と、とにかく偏っていて、一貫性は無さそうだった。はじめは、ただ単にいろいろなことに興味のある人なんだと思っていたけど、きっと何か特殊な仕事をしている人なんだと最近は思っている。たとえば、小説家とか。役者って可能性もある。
いつか答え合わせをしてみたいと思いながら遠くの彼を見つめていると、目が合った。
今日の進藤さんは、三冊の本をカウンターまで持って来た。『イルカの生態』『アイランド・オブ・ザ・ブルードルフィン』『海豚図鑑 完全版』……今日はイルカ縛りのようだ。
「これ、お願いします」
進藤さんが小さめの声でボソッと言った。ボリュームは小さくとも、彼の低い声のトーンは私の耳によく馴染む。たぶん、気のせいだろうけど。
「はい。三冊ですね。カードお預かりします」
進藤隼汰、と手書きで書かれたカードとイルカの本を預かり、専用の端末でバーコードを読み取る。少し右肩上がりの文字は、彼の癖なのだろう。コンピューターの画面に、これまでに進藤さんが図書館を利用した履歴がずらりと並ぶ。これは、彼側からは見えない。
「貸し出し期間は二週間です。延長なさりたい場合はカウンターでお申し出いただくか、マイページから操作ください」
決まり切ったセリフを言い、カードと本を彼に手渡した。
思い切って彼に声をかけるなら、今かも。さりげなく聞いてみようか。どんなお仕事されているんですか? って。ああ、でもやっぱりいきなりそんなこと聞くのはおかしいよね。まずは当たり障りのない天気の話とかから始めた方がいいかもしれない。うん、そうだ。——よし。
「き……」
今日は暖かいですね。
そう言おうとしたのに、進藤さんは本を手提げのバッグに仕舞うとカウンターから離れてしまった。そしてそのまま、自動ドアを抜けて館内から去ってしまう。
……ああ、今日も駄目だった。
家から電車で七駅先にある、市立図書館。そこが今の私の職場だ。今の、というのはつまり、前は違ったということで、私は三年前までは出版社で働いていた。少し体調を崩してしまった為、二年前に退職し、それからほぼ一年間は働けなかった。そして一年前、ようやくこの図書館の司書として再出発を切った。学生時代に取得していた司書資格が、思わぬところで役に立った形だ。前職が出版社で、今は図書館。私はどうも書籍に囲まれていたいらしい。
出版社に戻れなくなった時は正直、落ち込んだけれど、今は図書館で——正確には「この」図書館で——働けて、本当に良かったと思っている。その理由は、あの人。
視線の先、一般書の棚で本を眺めているその人は、半年前くらいから頻繁にここを訪れるようになった。もっと前からいたのかもしれないけれど、少なくとも私が彼を認識し始めたのは半年前だ。少し癖のある髪に無精髭。服装は特別おしゃれではないものの、いつもきちんとした格好をしている。あれでおしゃれだったら、緊張して本を渡す手が震えてしまうかもしれない。
彼の名前は進藤隼汰。もちろん、図書館カードを見て知っただけだ。進藤さんはいつも偏った本を大量に借りていくので、スタッフの間でも有名だった。例えばある時は、パリのオペラ座に関するもの、またある時は宇宙や天体に関するもの、そしてまたある時は麺類に関するもの……と、とにかく偏っていて、一貫性は無さそうだった。はじめは、ただ単にいろいろなことに興味のある人なんだと思っていたけど、きっと何か特殊な仕事をしている人なんだと最近は思っている。たとえば、小説家とか。役者って可能性もある。
いつか答え合わせをしてみたいと思いながら遠くの彼を見つめていると、目が合った。
今日の進藤さんは、三冊の本をカウンターまで持って来た。『イルカの生態』『アイランド・オブ・ザ・ブルードルフィン』『海豚図鑑 完全版』……今日はイルカ縛りのようだ。
「これ、お願いします」
進藤さんが小さめの声でボソッと言った。ボリュームは小さくとも、彼の低い声のトーンは私の耳によく馴染む。たぶん、気のせいだろうけど。
「はい。三冊ですね。カードお預かりします」
進藤隼汰、と手書きで書かれたカードとイルカの本を預かり、専用の端末でバーコードを読み取る。少し右肩上がりの文字は、彼の癖なのだろう。コンピューターの画面に、これまでに進藤さんが図書館を利用した履歴がずらりと並ぶ。これは、彼側からは見えない。
「貸し出し期間は二週間です。延長なさりたい場合はカウンターでお申し出いただくか、マイページから操作ください」
決まり切ったセリフを言い、カードと本を彼に手渡した。
思い切って彼に声をかけるなら、今かも。さりげなく聞いてみようか。どんなお仕事されているんですか? って。ああ、でもやっぱりいきなりそんなこと聞くのはおかしいよね。まずは当たり障りのない天気の話とかから始めた方がいいかもしれない。うん、そうだ。——よし。
「き……」
今日は暖かいですね。
そう言おうとしたのに、進藤さんは本を手提げのバッグに仕舞うとカウンターから離れてしまった。そしてそのまま、自動ドアを抜けて館内から去ってしまう。
……ああ、今日も駄目だった。