この一秒に、愛を込めて
 進藤さんの目には、涙が滲んでいる。私は言葉を発することができず、瞬きをした瞬間に涙が頬に落ちた。
 私は彼がどんなに辛い思いをしてきたのかも知らずに、勝手に騙されたとばかり思ってしまっていた。最低だ。進藤さんに、酷いことを言ってしまった。
 
「すみません……私が泣いてしまって」
「いえ、構いません」
「それで……その、奥様とはその後……?」
 もしかして、別れてしまったんだろうか?
「俺のことを忘れてしまった以上、夫婦関係は続けられなくて。彼女の両親からは離婚を勧められました。別れて、それぞれやり直した方がお互いの為だ、って」
「そんな……。でもそれじゃ奥様の気持ちが」
「はい。俺もそう言いました。だから、離婚はしていません。もちろん、彼女は何も知りません。自分が結婚していることも、知らないはずです」
「いつか、思い出してくれるかもしれないから、そうしているんですか?」
「……どうでしょう。もう、思い出してもらえなくてもいいかなとも思い始めています、最近」
「そんな……」
 それじゃ、進藤さんが辛すぎる。進藤さんにだって、人生があるんだから。
「奥様が今、どこにいてどうされているのか、ご存知なんですか?」
「ええ、よく知っています。元気に仕事していますよ。相変わらず本に囲まれて」
 そう言って、進藤さんは優しく微笑んだ。そっか、じゃあ奥さんは出版社でまた働いているんだ。
「相変わらず……可愛くて。ボタニカル柄が好きで。動物にセリフを付けると笑ってくれて。玉子焼きの味はめちゃくちゃ甘くて」
 
 ——え?
 
「好きな映画も変わってなくて。相変わらず——俺のことが好きで。忘れているくせに、俺のこと好きだってバレバレなんだよ。こっちはこんなに……こんなに、もどかしいっていうのに。俺のことは忘れてるくせに、昔俺が話したことはちゃんと覚えていて。何なんだよ、お前。何で……。ごめん、本当は……話すつもりなんて無かった。でも勘違いされたまま嫌われるのが怖くて……。もう嫌なんだ。こんなに近くにいるのに、触れることもできないなんて」
 
 進藤さんが、泣いている。
 今度ははっきりと、ボロボロと、涙をこぼして。
 進藤さんはおもむろに椅子から立ち上がると、私の前までやって来た。そして、私を抱きしめた。苦しいくらいに。
 
「ひなた……。頼む、もうどこにも行かないでくれ……。俺のこと、思い出せなくてもいいから」
 
 ぎゅっと力が込められた彼の手は、少しだけ震えていた。
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