「大好き♡先輩、お疲れ様です♡」溺愛💕隣りのわんこ系男子!
第14話 常盤舜社長視点「野坂さん、今日も綺麗だね」1
社長って役職《いち》に就いてから、不便だなとよく思うようになった。
せっかく再会した初恋の相手にも、まともに話しかけることは出来やしないからだ。
少しもロマンチックじゃない業務内容ならいくらでも話せるが、プライベートなことになるとてんで駄目。
今どきはセクシャルハラスメントやパワハラにも気を配らなくてはならないから、彼女とはどうするべきか悩んでしまう。
社長と社員ではパワーバランスが違うから、野坂さんに負担をかけたくない。
俺が口説いたら彼女に迷惑がかかるだろうと、ブレーキがかかる。
「今日も可愛いね、綺麗だね。野坂さんはいつも……、いや、今日はいつにも増して素敵だね」
こう言いたい日があるのに、伝えられない。
もどかしさにかられる。
異母兄が継ぐはずだった社長職は自分に回ってきたんだ。
跡継ぎを嫌がった長男である兄は留学したらパティシエになって、そっちで大成功をおさめてしまった。
容姿に恵まれ才能がある自分自身を上手くプロデュースをし、マスコミや業界を味方につけ、兄は常盤家から逃げおおせたのだ。
母は父と離婚したのに、復縁した。
父は兄を失い、母や俺の大切さに気づいたという。
威圧的だった父はすっかり影を潜め時折り弱々しくさえあった。
母は父を献身的に支えることに目覚めてしまったのだ。
元々飲食業界で成功した常盤グループはさらに大きくなった。
母は女帝と化したのだ。
厳しく高圧な態度を父は母と俺にしてきたが、今は逆だ。
母が実質、常盤家を牛耳っている。
父はほとんど母の言いなりになり、今では家庭で優しくほんわかした父になった。
そんな父を見てきて俺は支えてやりたいなと思ったんだ。
大学生になって四年間は母の旧姓「永瀬」を名乗った。
大学生活だけは、母に自由にさせてもらえることになった。
ただ――、卒業したら、好きでもないご令嬢と結婚することが決まっていた。
俺には母が選んで決めた、家の繋がりを重視した許嫁がいたんだ。
俺は後輩の野坂茜音さんを好きになってしまったのに――。
大学のサークルでは『農業と天文学サークル』に入った。
畑を耕したりして農作物を育てたりしながら天文学も楽しもうってコンセプトのサークルだった。
志は高くわりと真面目に作物に向き合い、月や惑星に天体ショーが好きなロマンチストが集まっていた。
おしゃべり好きも奥手なはにかみ屋もいたが、みんな仲が良かった。
自分の家が飲食業界の会社ってことで食材には興味があったし、夜空を眺めるのは昔から好きだった。
俺にはぴったりな場所だったのだ。
中学、高校と、ちょっとヤンチャして不良めいた学生だったのだが、大学生になったら180度自分を変えた。
あと、自由時間は四年しかない。
――だから、真面目に青春を謳歌することに決めた。
中学でも高校でも女子にはモテた。
彼女がいない時期はなかった。
どうも容姿が派手らしく、目立つ。
父も母も目鼻立ちが世間の評判からすると整った美男美女なので、どうやら血を受け継いだようだった。
荒れていたから、女も取っ替え引っ替えしてやろうかと思ってた。ひねくれた不良でチャラいことばっかりしていたから。
でも、実際はそんなに付き合った人数は多くはない。
来る者拒まず、去るもの追わず主義を通した。
ただ、浮気はしない。
女の子と付き合ってる間は優しくはしようと思ってはいたけれど、男友達と過ごしていたって疑われることが多かった。
俺は本当は気づいていた。
そんなに、女性関係においては器用な男じゃないってこと。
表面では遊び人を装っていたって出来なくて、実際は一人の女と分かり合ってじっくり付き合いたいと思っていた。
自分を受け止め、ちゃんと受け入れてくれる人。
そんな相手を強く求めていた。
どこかにいないのか?
運命の相手と言える、どうしょうもなく心が惹かれる相手が。
ずっと探して、渇望していたのかもしれない。
心の寂しさを彼女という存在の温もりで埋めてきたけど、実際は空虚なままだった。
だから反動で、大学ではダサめに目立たないように過ごした。
たまに女子から告白はされたりしたが、誰とも付き合う気が起きなかったな。
寄ってくる女は俺が「常盤グループの社長の息子」だってどこからか嗅ぎつけた子や俺の容姿を重要視ばかりする子ばっかりだった。
だから、さらに見た目は地味にした。
大学四年になって、周りは就活やら大学院に行くとか忙しくてソワソワしていたが、自分には目の前にレールが敷かれていた。
選択肢は『俺が常盤の社長になること』しかなかった。
もう時間はない、自由時間に猶予がある。
焦燥感と落ちた気分はしばらく続いた。
あれは、突然滝のような雨が降ってきた五月のある日。
――土砂降りの雨の日、後輩が傘を貸してくれた。
その後輩の名前は、野坂茜音さん。
彼女と初めて言葉を交わした。
同じサークルだったが、遠巻きに見ていた。
笑顔が可愛くて、彼女の笑顔を見るたびに癒やされていたことに気づいた。
自分の気持ちに気づいて、……ハッとした。
「舜《しゅん》先輩ってハムスターみたいですね」
「ええっ?」
「可愛い、ハムスターみたい」
「か、可愛い?」
「あっ! ご、ごめんなさい。髪の毛が茶色でくるくるで、なんか雰囲気がハムスターに似てるなあって。舜先輩がさっき食堂でサンドイッチをですね、両手でもぐもぐ食べてるのを見かけたから」
「その俺の姿がひまわりの種とかを夢中で頬張るハムスターみたい、だと言うのかな?」
「そーそー。って、ごめんなさい! 初めてまともにお話するのに、男の人に可愛いとかハムスターに似てるとか……」
「ふふっ、はははっ。君って面白い人だね〜」
尖った人生を生きてきた自負があるから、ハムスターに似てるとか言われたのが衝撃だった。
ちょっと嬉しかったのかもしれない。
そんな風に言ってくれる女の子は今までいなかった。
俺はそんな可愛らしい小動物に例えられるほど、本当は穏やかでも優しくもない。
女性も自分も、大切にしてこなかった。大事にしている、つもりではあったけど。
そう、つもりだったんだ。
相手も自分も、知らず知らずなうちに傷つけ続けていたんだろう。
野坂さんを知るたびに、自分まで良い人になった気がした。
俺は大学生活、残りあと一年を思いっきり楽しむことに決めた。
野坂さんとサークルの畑で農作業に没頭したり、星空キャンプに参加したりした。
サークル活動の目玉の一つ、夏の長野の星空キャンプに出掛けたあの旅行で起きた出来事を、俺は忘れられない。
その旅行では、メンバーの皆は花火やジュースや酒の追加を買い出しに行ってしまい、彼女と二人きりになった。
火の番ってことでじゃんけんで俺と野坂さんが負けたからだったけど、俺にとってはめちゃくちゃラッキーだった。
二人きり。
野坂さんと俺、焚き火を囲む時間がしばらくあった。
「……あのさあ、野坂さんってさ、そんなに素敵で可愛いのに彼氏はいないの?」
「えっ? いいい、いるわけないじゃないですかっ。私は地味子なので……。可愛いのにとかってからかわないでください」
「可愛いよ」
「えっ?」
焚き火の火がパチパチッと大きく爆《は》ぜた。
他は静寂で――。
ゆっくりと帳《とばり》を広げる夕陽を残した夜空には星々が瞬きを見せ始めている。
俺はドキドキしていた。
こんな、ドキドキ……。
今までの恋ではなかった。
立ち上がった俺はキャンプチェアに座る野坂さんに、衝動的に素早くキスをしてた。
口づけはまず、おでこに一回した。
次は唇……に。
野坂さんはびっくりしてまん丸になった瞳で、俺を見ていた。
目が合ったまま、時間が止まる。
急に恥ずかしくなって、唇にはキスなんか出来なくて。
野坂さんのホッペに口づけた。
柔らか……い。
野坂さんのホッペって、まじ、柔らかい。
感動すら覚えてる。
「なななな、なにっ? 舜先輩、私にキスしましたよね?」
「ああ、はい。……しました。えっと友情の、えーっと友情のキスです」
「えっ、……友情?」
「この前、俺と友達になってくれるって言ってくれたから」
咄嗟に言い訳してた。
自分の気持ち、誤魔化していた。
「……先輩、もぉ。びっくりしたんですけど。友情キスとか……。舜先輩って帰国子女でしたっけ?」
「ああ、まあ。中学・高校の夏休みは毎年留学してたことあったけど」
「やっぱり。あのですね、私は経験がないんですし、男性の免疫がないんです。キスは唇じゃなくても重要というかなんというか……」
真っ赤な顔で恥ずかしそうにして、視線を泳がしたり目線は下に落ちる。
なんて可愛らしいんだ!
俺は野坂さんを思わず抱きしめていた。
「ハグなら良い?」
「ふはっ、あんまり私の耳の近くで喋らないでください。せ、先輩。今日はなんかいつもと違う……。私、ハグも困ります」
俺が野坂さんの耳元で囁くと、くすぐったそうだった。
こらえた笑い声がして、俺の胸を両手で押して腕の中から逃げようとする。
「先輩、大学を卒業したら結婚するんでしょう? 駄目ですよ。私とは友情からでだってこんなことしたら、婚約者の人が悲しみます」
俺は野坂さんの体をそっと離した。
「野坂さん、知ってたの? いつから?」
「さっき、聞きました。和久井さんから」
「和久井って。……タケルから、か」
和久井タケルは俺ん家の事情を知ってる。一緒にヤンチャもしてた、はとこにして幼馴染みの仲だ。
気が合う唯一無二の親友、通う大学も同じ。
――タケルには。
……俺が野坂さんを好きなことがバレてんだな。
「おめでとうございます。良いなあ、舜先輩は。結婚したいと思えるほどの人に出逢えたってことですもんね」
「……野坂さん」
良くなんてない。
婚約まで数回しか会ったことない女と、俺は結婚すんだぞ?
この頃の俺は本気で好きになった相手なら、母さんを説得しても結婚したいと思い始めていた。
「俺は野坂さんの隙だらけのとこ、心配だ。そんなに無防備じゃ悪い男にでも襲われるぞ?」
「大丈夫です。私を襲う、そんなもの好きな人なんていませんから」
「いるさ。野坂さんは罪な人だね」
「――えっ?」
「自分の魅力に全然気づいていないなんて」
このまま、告白してしまおうと思った。
「野坂さん。俺は、俺は君のことが好……」
そのタイミングに買い出しから帰って来た和久井が「やめろ、舜」と俺の想いを制止した。
あの後、和久井は俺を諭した。
「茜音ちゃんを巻き込むな」――と。
「大切なら茜音ちゃんに告白するのはやめろ。お前のことをまだ好きでもない茜音ちゃんには覚悟がない」
「これから惚れさす」
「お前には無理だ。両想いになったところで不幸になんぞ。あのおばさんが、お前の母親が茜音ちゃんを嫁に認めると思うか? 彼女を悲しませたくなかったら、絶対にやめろ。付き合うとか思うなよな。茜音ちゃんは諦めろ」
「俺は野坂さんのことが本気で……。遊びなんかじゃない」
「分かってんだよ、お前の気持ちは。だけど、彼女の未来のためにやめとけ」
野坂さんを俺の花嫁にしたら、ゆくゆくは不幸にする。
そのタケルの言葉は重かった。
俺の母親が自分の理想と設計図を壊すような人間を、許すわけがないとは分かってた。
母は必死すぎた。
常盤グループを自分の家族を守りたい一心でいて、誰の意見や願いにも耳を貸さなくなっていた。
そうして俺は一度、野坂さんを諦めた。
だが、俺に課せられた政略的な結婚が失敗して離婚した今は、母の束縛は多少緩んだ。
今度こそは、野坂さんを手に入れたい。
それには、正攻法でいこう。
ほうら、やっぱり君は悪い男にひっかかってしまったんだな。
元カレの中山君は邪魔な存在だ。
……それに野坂さんを好きだと宣言している城ヶ崎君がなにかと野坂さんとイチャついていて、俺は嫉妬してる。
だが、城ヶ崎君とはいいライバルになれそうだ。
彼は誠実に野坂さんを想っている。
ならばこちらも誠意を示そう。
堂々と真正面から野坂さんを口説くことに決めた。
城ヶ崎君に向いている野坂さんの心を奪い、俺に惚れてもらうまで。
野坂さんは、俺があの永瀬舜だったと思い出しただろうか。
俺はやっと出逢えた野坂さんを、今度こそは諦めない。
まずは社長と社員の一人としてではなく、友人の関係から再度始めさせてもらおうか。
せっかく再会した初恋の相手にも、まともに話しかけることは出来やしないからだ。
少しもロマンチックじゃない業務内容ならいくらでも話せるが、プライベートなことになるとてんで駄目。
今どきはセクシャルハラスメントやパワハラにも気を配らなくてはならないから、彼女とはどうするべきか悩んでしまう。
社長と社員ではパワーバランスが違うから、野坂さんに負担をかけたくない。
俺が口説いたら彼女に迷惑がかかるだろうと、ブレーキがかかる。
「今日も可愛いね、綺麗だね。野坂さんはいつも……、いや、今日はいつにも増して素敵だね」
こう言いたい日があるのに、伝えられない。
もどかしさにかられる。
異母兄が継ぐはずだった社長職は自分に回ってきたんだ。
跡継ぎを嫌がった長男である兄は留学したらパティシエになって、そっちで大成功をおさめてしまった。
容姿に恵まれ才能がある自分自身を上手くプロデュースをし、マスコミや業界を味方につけ、兄は常盤家から逃げおおせたのだ。
母は父と離婚したのに、復縁した。
父は兄を失い、母や俺の大切さに気づいたという。
威圧的だった父はすっかり影を潜め時折り弱々しくさえあった。
母は父を献身的に支えることに目覚めてしまったのだ。
元々飲食業界で成功した常盤グループはさらに大きくなった。
母は女帝と化したのだ。
厳しく高圧な態度を父は母と俺にしてきたが、今は逆だ。
母が実質、常盤家を牛耳っている。
父はほとんど母の言いなりになり、今では家庭で優しくほんわかした父になった。
そんな父を見てきて俺は支えてやりたいなと思ったんだ。
大学生になって四年間は母の旧姓「永瀬」を名乗った。
大学生活だけは、母に自由にさせてもらえることになった。
ただ――、卒業したら、好きでもないご令嬢と結婚することが決まっていた。
俺には母が選んで決めた、家の繋がりを重視した許嫁がいたんだ。
俺は後輩の野坂茜音さんを好きになってしまったのに――。
大学のサークルでは『農業と天文学サークル』に入った。
畑を耕したりして農作物を育てたりしながら天文学も楽しもうってコンセプトのサークルだった。
志は高くわりと真面目に作物に向き合い、月や惑星に天体ショーが好きなロマンチストが集まっていた。
おしゃべり好きも奥手なはにかみ屋もいたが、みんな仲が良かった。
自分の家が飲食業界の会社ってことで食材には興味があったし、夜空を眺めるのは昔から好きだった。
俺にはぴったりな場所だったのだ。
中学、高校と、ちょっとヤンチャして不良めいた学生だったのだが、大学生になったら180度自分を変えた。
あと、自由時間は四年しかない。
――だから、真面目に青春を謳歌することに決めた。
中学でも高校でも女子にはモテた。
彼女がいない時期はなかった。
どうも容姿が派手らしく、目立つ。
父も母も目鼻立ちが世間の評判からすると整った美男美女なので、どうやら血を受け継いだようだった。
荒れていたから、女も取っ替え引っ替えしてやろうかと思ってた。ひねくれた不良でチャラいことばっかりしていたから。
でも、実際はそんなに付き合った人数は多くはない。
来る者拒まず、去るもの追わず主義を通した。
ただ、浮気はしない。
女の子と付き合ってる間は優しくはしようと思ってはいたけれど、男友達と過ごしていたって疑われることが多かった。
俺は本当は気づいていた。
そんなに、女性関係においては器用な男じゃないってこと。
表面では遊び人を装っていたって出来なくて、実際は一人の女と分かり合ってじっくり付き合いたいと思っていた。
自分を受け止め、ちゃんと受け入れてくれる人。
そんな相手を強く求めていた。
どこかにいないのか?
運命の相手と言える、どうしょうもなく心が惹かれる相手が。
ずっと探して、渇望していたのかもしれない。
心の寂しさを彼女という存在の温もりで埋めてきたけど、実際は空虚なままだった。
だから反動で、大学ではダサめに目立たないように過ごした。
たまに女子から告白はされたりしたが、誰とも付き合う気が起きなかったな。
寄ってくる女は俺が「常盤グループの社長の息子」だってどこからか嗅ぎつけた子や俺の容姿を重要視ばかりする子ばっかりだった。
だから、さらに見た目は地味にした。
大学四年になって、周りは就活やら大学院に行くとか忙しくてソワソワしていたが、自分には目の前にレールが敷かれていた。
選択肢は『俺が常盤の社長になること』しかなかった。
もう時間はない、自由時間に猶予がある。
焦燥感と落ちた気分はしばらく続いた。
あれは、突然滝のような雨が降ってきた五月のある日。
――土砂降りの雨の日、後輩が傘を貸してくれた。
その後輩の名前は、野坂茜音さん。
彼女と初めて言葉を交わした。
同じサークルだったが、遠巻きに見ていた。
笑顔が可愛くて、彼女の笑顔を見るたびに癒やされていたことに気づいた。
自分の気持ちに気づいて、……ハッとした。
「舜《しゅん》先輩ってハムスターみたいですね」
「ええっ?」
「可愛い、ハムスターみたい」
「か、可愛い?」
「あっ! ご、ごめんなさい。髪の毛が茶色でくるくるで、なんか雰囲気がハムスターに似てるなあって。舜先輩がさっき食堂でサンドイッチをですね、両手でもぐもぐ食べてるのを見かけたから」
「その俺の姿がひまわりの種とかを夢中で頬張るハムスターみたい、だと言うのかな?」
「そーそー。って、ごめんなさい! 初めてまともにお話するのに、男の人に可愛いとかハムスターに似てるとか……」
「ふふっ、はははっ。君って面白い人だね〜」
尖った人生を生きてきた自負があるから、ハムスターに似てるとか言われたのが衝撃だった。
ちょっと嬉しかったのかもしれない。
そんな風に言ってくれる女の子は今までいなかった。
俺はそんな可愛らしい小動物に例えられるほど、本当は穏やかでも優しくもない。
女性も自分も、大切にしてこなかった。大事にしている、つもりではあったけど。
そう、つもりだったんだ。
相手も自分も、知らず知らずなうちに傷つけ続けていたんだろう。
野坂さんを知るたびに、自分まで良い人になった気がした。
俺は大学生活、残りあと一年を思いっきり楽しむことに決めた。
野坂さんとサークルの畑で農作業に没頭したり、星空キャンプに参加したりした。
サークル活動の目玉の一つ、夏の長野の星空キャンプに出掛けたあの旅行で起きた出来事を、俺は忘れられない。
その旅行では、メンバーの皆は花火やジュースや酒の追加を買い出しに行ってしまい、彼女と二人きりになった。
火の番ってことでじゃんけんで俺と野坂さんが負けたからだったけど、俺にとってはめちゃくちゃラッキーだった。
二人きり。
野坂さんと俺、焚き火を囲む時間がしばらくあった。
「……あのさあ、野坂さんってさ、そんなに素敵で可愛いのに彼氏はいないの?」
「えっ? いいい、いるわけないじゃないですかっ。私は地味子なので……。可愛いのにとかってからかわないでください」
「可愛いよ」
「えっ?」
焚き火の火がパチパチッと大きく爆《は》ぜた。
他は静寂で――。
ゆっくりと帳《とばり》を広げる夕陽を残した夜空には星々が瞬きを見せ始めている。
俺はドキドキしていた。
こんな、ドキドキ……。
今までの恋ではなかった。
立ち上がった俺はキャンプチェアに座る野坂さんに、衝動的に素早くキスをしてた。
口づけはまず、おでこに一回した。
次は唇……に。
野坂さんはびっくりしてまん丸になった瞳で、俺を見ていた。
目が合ったまま、時間が止まる。
急に恥ずかしくなって、唇にはキスなんか出来なくて。
野坂さんのホッペに口づけた。
柔らか……い。
野坂さんのホッペって、まじ、柔らかい。
感動すら覚えてる。
「なななな、なにっ? 舜先輩、私にキスしましたよね?」
「ああ、はい。……しました。えっと友情の、えーっと友情のキスです」
「えっ、……友情?」
「この前、俺と友達になってくれるって言ってくれたから」
咄嗟に言い訳してた。
自分の気持ち、誤魔化していた。
「……先輩、もぉ。びっくりしたんですけど。友情キスとか……。舜先輩って帰国子女でしたっけ?」
「ああ、まあ。中学・高校の夏休みは毎年留学してたことあったけど」
「やっぱり。あのですね、私は経験がないんですし、男性の免疫がないんです。キスは唇じゃなくても重要というかなんというか……」
真っ赤な顔で恥ずかしそうにして、視線を泳がしたり目線は下に落ちる。
なんて可愛らしいんだ!
俺は野坂さんを思わず抱きしめていた。
「ハグなら良い?」
「ふはっ、あんまり私の耳の近くで喋らないでください。せ、先輩。今日はなんかいつもと違う……。私、ハグも困ります」
俺が野坂さんの耳元で囁くと、くすぐったそうだった。
こらえた笑い声がして、俺の胸を両手で押して腕の中から逃げようとする。
「先輩、大学を卒業したら結婚するんでしょう? 駄目ですよ。私とは友情からでだってこんなことしたら、婚約者の人が悲しみます」
俺は野坂さんの体をそっと離した。
「野坂さん、知ってたの? いつから?」
「さっき、聞きました。和久井さんから」
「和久井って。……タケルから、か」
和久井タケルは俺ん家の事情を知ってる。一緒にヤンチャもしてた、はとこにして幼馴染みの仲だ。
気が合う唯一無二の親友、通う大学も同じ。
――タケルには。
……俺が野坂さんを好きなことがバレてんだな。
「おめでとうございます。良いなあ、舜先輩は。結婚したいと思えるほどの人に出逢えたってことですもんね」
「……野坂さん」
良くなんてない。
婚約まで数回しか会ったことない女と、俺は結婚すんだぞ?
この頃の俺は本気で好きになった相手なら、母さんを説得しても結婚したいと思い始めていた。
「俺は野坂さんの隙だらけのとこ、心配だ。そんなに無防備じゃ悪い男にでも襲われるぞ?」
「大丈夫です。私を襲う、そんなもの好きな人なんていませんから」
「いるさ。野坂さんは罪な人だね」
「――えっ?」
「自分の魅力に全然気づいていないなんて」
このまま、告白してしまおうと思った。
「野坂さん。俺は、俺は君のことが好……」
そのタイミングに買い出しから帰って来た和久井が「やめろ、舜」と俺の想いを制止した。
あの後、和久井は俺を諭した。
「茜音ちゃんを巻き込むな」――と。
「大切なら茜音ちゃんに告白するのはやめろ。お前のことをまだ好きでもない茜音ちゃんには覚悟がない」
「これから惚れさす」
「お前には無理だ。両想いになったところで不幸になんぞ。あのおばさんが、お前の母親が茜音ちゃんを嫁に認めると思うか? 彼女を悲しませたくなかったら、絶対にやめろ。付き合うとか思うなよな。茜音ちゃんは諦めろ」
「俺は野坂さんのことが本気で……。遊びなんかじゃない」
「分かってんだよ、お前の気持ちは。だけど、彼女の未来のためにやめとけ」
野坂さんを俺の花嫁にしたら、ゆくゆくは不幸にする。
そのタケルの言葉は重かった。
俺の母親が自分の理想と設計図を壊すような人間を、許すわけがないとは分かってた。
母は必死すぎた。
常盤グループを自分の家族を守りたい一心でいて、誰の意見や願いにも耳を貸さなくなっていた。
そうして俺は一度、野坂さんを諦めた。
だが、俺に課せられた政略的な結婚が失敗して離婚した今は、母の束縛は多少緩んだ。
今度こそは、野坂さんを手に入れたい。
それには、正攻法でいこう。
ほうら、やっぱり君は悪い男にひっかかってしまったんだな。
元カレの中山君は邪魔な存在だ。
……それに野坂さんを好きだと宣言している城ヶ崎君がなにかと野坂さんとイチャついていて、俺は嫉妬してる。
だが、城ヶ崎君とはいいライバルになれそうだ。
彼は誠実に野坂さんを想っている。
ならばこちらも誠意を示そう。
堂々と真正面から野坂さんを口説くことに決めた。
城ヶ崎君に向いている野坂さんの心を奪い、俺に惚れてもらうまで。
野坂さんは、俺があの永瀬舜だったと思い出しただろうか。
俺はやっと出逢えた野坂さんを、今度こそは諦めない。
まずは社長と社員の一人としてではなく、友人の関係から再度始めさせてもらおうか。