月へとのばす指
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「ねえ、聞いたぁ?」
社員食堂の席で、近くに座る女子社員三人組のひとりが、そう話し始める声を館野唯花の耳は拾った。
「社長の息子が来月ぅ、戻ってくるんだって」
「え、アメリカ支社に行ってる長男?」
ひとり目の声に、別の女性のはしゃいだ声が応じる。
「そうそう。うちの部に入ってくるみたいよぉ。次長か部長かぁ……たぶんそのへんだろうって」
「ああ、それで課長、機嫌が悪そうなんだ」
「部長が異動したら当然次は自分だって思ってただろうからね。社長の息子とはいえ、二十代にポストかっさらわれちゃたまんないよね、そりゃ」
「まあ、あのイヤミ課長が上に行くより、息子の方がいくらかマシじゃない?」
「そうかもねぇ」
あはは、と気楽な笑い声が唱和した。
彼女たちには見覚えがある。本社の稼ぎ頭、営業一課で営業事務をしている子たちだ。何をするにも三人でつるんでいる時が多い。
ということは、噂の社長の長男は、営業一課に入るのだろう。それも管理職待遇で。将来の社長候補としては順当なのだろうが、長男は確か、今二十八歳の唯花よりいくつか年下のはずだ。
そんな若造に昇進の道を阻まれては確かに気分良くないだろうな、と営業一課の課長の胸中を思う。営業事務の彼女たちが言う通り、嫌味な発言の多い人物として有名ではあるけど。
来月とは言っても、今月、つまり三月は残りせいぜい十日ほど。近々何かしらの手続きや書類作成事項が回ってくるだろう。社員の入退社についての仕事を主に担っているのは、唯花を含めた総務の女子社員だ。
……ところで、社長の長男とは、どんな人物なのだろう?
唯花が入社したのは二年前、件の人物とはちょうどすれ違いで、噂に聞く以上のことは何も知らない。まあまあイケメンだとか、坊ちゃん嬢ちゃん御用達として有名な私立大学の卒業生であるとか、家が裕福でもあるからかなりモテていてけっこう女遊びも派手だったとか。
総務にいれば、多少は社長一家と関わることもある。とはいえあくまでも業務上の範囲であるし、今回の件も唯花には大きく関係ないだろう。なんといっても社長の息子、跡取り候補の御曹司だ。公私混同して無茶ぶりをしてくるような性質でなければ、それで良い。
自分は淡々と、回された仕事をこなすのみである。
食べ終えたランチの食器を前に手を合わせ、唯花は立ち上がった。昼休憩終了のチャイムが鳴る前に、課室へ戻るために。
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