月へとのばす指

 中腰で走り寄ってきた彼女、館野唯花嬢は、相手が久樹だということに気づいてか、口に出しかけた言葉を訂正する。ぱっと見、営業かどこかの若手だと思ったのだろう。若手には違いないしこの童顔気味の容貌では当然なのだが、微妙な胸の重さを感じた。

 かといって、丁寧語を尊敬語に変えられたことが嬉しかったわけでもない。このもやもやとした妙な気持ちは、いったいなんなのだろう。

「申し訳ありません、次長」

 気づくとすぐ隣にいた唯花が、謝罪をもう一度口にした。距離の近さに一瞬心臓が跳ね、次いで耳元で鳴っているかのような大きさで鼓動が聞こえる。

 一メートルと離れていない間隔で見ると、ますます美人度が上がると感じた。化粧は決して濃くはない。だがもともとくっきりとした目鼻立ちの彼女には、そのメイク加減がちょうどよかった。それでいてこちらを見るまなざしは、慌ててはいるもののやわらかい雰囲気で、じんわりとしみ入ってくるような落ち着きを感じる。

 細く白い指を目の前に伸ばされて、思わず膝をついたまま二歩ほど後ずさった。唯花の目が、きょとん、といったふうに丸くなる。

 戸惑っていると、手のひらをこちらに向けた唯花が「あのすみません、書類……」と遠慮がちに言った。はっとする。

「あ、ああそうか、ごめん。これで全部かな」

 少なからず焦りを覚えながら尋ねると、唯花は周囲をくるりと見回してから「大丈夫です」と答える。

「そうか、ええと、……館野さん」
「はい」
「受付に渡す書類?」
「そうです、来週の来客予定リストで」

 言いながら立ち上がりかける唯花の手から、書類をまとめて引き抜いた。唯花が驚きで目を見開く。

「次長?」

 後ろからの呼びかけにも振り向かず、久樹は書類を持ったまま一直線に受付へと逆戻りした。慌てた気配が追いかけてくるのを感じながらも、書類を目に付いた受付嬢に手渡す。

「これを」
「え、あ、はい」

 あからさまに面食らった表情で受け取った受付嬢から目をそらし、やっと振り返った。視線の先にいる唯花も、受付嬢と同じぐらいに面食らっている様子である。当然だろう。

「あ、あの──申し訳ありません」

 軽く息を切らしてそう言う唯花は、白い頬を紅潮させ目に戸惑いを浮かべている。そんな表情も、彼女の美しさを引き立たせて輝かせているように思えた。
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