月へとのばす指
「うむ、ところで戻ってきたばかりで済まないが、これの手配をしてくれるかな」
「承知しました」
部長から渡されたクリアファイルの書類を、席に戻ってから唯花は確認する。会社が持つ独身寮の退去申請書だった。
「藤城功貴……ああ」
社長の次男、久樹の弟だ。退去理由は「結婚のため」とある。年齢は二十五歳だったはずだが、兄よりも先に結婚するらしい。
そんな年なのか、と唯花は声に出さずにつぶやく。そういう自分も今年で二十九歳、時代が時代なら「嫁き遅れ」と揶揄されても仕方ない年である。
思わず、小さなため息が出た。幸いというか、周囲にそういう口出しをしてくる身内や知り合いはいないものの、気にならないわけではないのだ。
だが、気にしたところで始まらない。目ぼしい相手がいるわけでもないのだし。誰が何歳で結婚しようと、私は私だ。そう思う。
「あっそれ、次長の弟さんだよね」
すぐ脇で聞こえた声に少なからず驚き、振り返ると、総務の中で一番年の近い先輩(と言っても年下ではあるが)、佐倉杏子が手元の書類を覗き込んでいた。
「結婚するんだっけ。やっぱ、どこかの重役のお嬢さんとかかなあ」
「噂では大学の同級生らしいよ?」
そう割り込んできたのは、同じく先輩(以下同文)の近田紀江。こうなると、と思っているとやはり、残りの一人である本山彩加が近寄ってきた。
「次長と同じ、あの坊ちゃん嬢ちゃん大学だよね。やっぱお嬢様でしょ」
「そこのお嬢さん方、仕事は終わってるのかね」
「はーいすみませーん」
部長の軽い叱責で、蜘蛛の子を散らすようにぱっと散ってゆく先輩三人。二歳か三歳の違いなのに彼女たちはいつも、良く言えば陽気で、悪く言えばまだ学生のようだ。自分も、学生であった時期からの隔たりはそう変わらないはずなのだが。
自分と、周りの女性との違いを思うと、少しばかり自己嫌悪に陥らなくもなかった。だがもともとの性格による側面もあるし、悩んだところでどうなるものでもない。
私は私ができる範囲で、できることをするだけだ。唯花はもう一度自分に言い聞かせた。