月へとのばす指
不本意ながら、それだけの関係でしかない。今は。
なおも抑えた声を出す久樹に対し、功貴は笑いを深める。
「へえ、そう? じゃあ俺が話してても何ら問題ないよな」
「おまっ」
「別にいいだろ、手え出すわけじゃないんだし。まあそんな気ないけどさ、もちろん」
「当たり前だ」
功貴の婚約者は、大学での同期生だと聞いている。学生時代からの付き合いであり、家にも何度か連れてきているから顔は知っている。おとなしそうな、控えめな印象の可愛らしい女性だった。それでいてしっかりした性格を会話の端々で見せていたから、功貴の舵取りも問題なくこなしていくだろうと思う。
「ほらほら、次長さん。今日も会議あるんじゃなかったっけ? 急がないとまずいですよ」
「……気楽だな、おまえは」
「おかげさまで次男坊ですから。マジ、もうすぐ予鈴が鳴るぜ」
功貴が言うのと同時に、吹き抜けの空間に、チャイムが鳴り響いた。社員に「予鈴」と称される始業五分前の合図だ。
バタバタと、入り口から小走りで駆け込んでくる社員に混じり、久樹もエレベーターホールに向かう。走りながら振り返ると、功貴は受付カウンターの側に立ったままの唯花の元に戻り、また何事か会話している。
大いに気にはなったが、それどころではない。盛大に後ろ髪を引かれつつ、到着したエレベーターに飛び乗った。
会議が終わったのは昼近くになった頃だった。
昼食用に弁当が支給されたが、他の管理職や役員のように会議室で食べるのは気が進まず、かと言って営業部の席に戻る気にもなれない。混んでいるかもしれないが、食堂に行って食べようと考えた。
行ってみると、広い社員食堂だが、一般にも開放されている影響もあってか、やはり混雑していた。ちらりとメニューを見ると、今日のお勧めはクラブハウスサンドセットと書いてある。聞くところによれば社食のサンドイッチ類は絶品らしいので、これだけ客が多いのかもしれない。
見回して、入り口から近い場所に、向かい合った二つの席が空いているのを見つけた。正確には、片側のひとつの椅子にはカーディガンが掛けてある。女子社員が席を取った上で注文に行っているのだろう。
向かいに自分が座ったら落ち着かない気分にさせてしまうかもしれないが、容赦してもらおう。そう考えつつ、向かいと同じように上着を椅子に掛けてから座る。