月へとのばす指
弁当のふたを開けたところで、テーブルの向かい側にお盆が置かれる気配がした。席取りしていた人物が戻ってきたのかと反射的に顔を上げて、不覚にも固まってしまう。
「あ。お疲れさまです、次長」
「……お、お疲れ」
緊張を隠せなかった久樹に対し、唯花は、特に何も感じてはいない様子で挨拶をし、椅子に座った。
なぜ、向かいを取っていたのがよりによって彼女なのか。
──いや、考えようによってはこれはチャンスではないのか。彼女と少しでも間柄を近づけるための。
うっかりそんなことを考えてしまったせいで、かえって緊張が深まってきた。……近づける、といっても、適当な話題を何も思いつけないのに、どうするんだいったい。そんな自問を繰り返すしかできないでいる。
箸の進まない弁当から視線を上げると、唯花は本当に普通の、落ち着いた様子で定食を食べ進めている。今日の日替わりはサバの味噌煮らしい。実家の家政婦は特に和食が得意なので、魚の煮付けはよく作ってくれた。
……彼女は、料理の腕前はどうなのだろう。そういえば、一人暮らしなのか実家暮らしなのか、それすら知らない。知っているのはフルネームと年と、二年前に入社して総務所属だということぐらいである。
あまりにも唯花について何も知らないことを再認識して、愕然としてしまう。なぜその事実がこんなにショックなのか──と考えて、今さらながら、認めざるを得なかった。
自分は唯花に惹かれているのだ。
おそらくは、初めて会った時から。
彼女は、これまでに知っていた女たちとは、どこか違う。
外見の問題ではない。美人には違いないが、育ってきた環境上、同じレベルの美人やそれ以上の容姿の持ち主は飽きるほど目にしてきた。男女の付き合いをした相手も何人となくいる。それでもなお、唯花は彼女たちとは違う、と思う。
唯花は、久樹が上役であること、社長の息子という素性であることを、まったく気にしていないように思える。もちろん礼儀正しくは接しているが、必要以上に緊張したり、媚びたりするような態度を見せない。あくまでも自然体なのだ。
そんな女性には今まで会ったことがなかった。同年代の女なら確実に、久樹と対峙した場合、何かしら含みのある目で見つめてくるか手の届かない相手だと判断して遠ざかるか、行動はその二択だったのだ。