月へとのばす指
そうでない女性がいるなんて──出会えるだなんて。
彼女が向かいにいると思うだけで、やたら緊張して、心臓が高鳴っているのを感じる。まるで十代の、初恋に気づいたばかりの子供のようだ。自分で自分がおかしくなる。
「──次長、大丈夫ですか」
「えっ?」
我に返って顔を上げると、まともに唯花と目が合った。何の含みも計算もない、ただ純粋に疑問が浮かんでいるだけのきれいな瞳に釘付けになる。
「……あの、本当に大丈夫ですか? 顔が赤いですよ、熱があるのでは」
唯花の気遣わしげな声に、応じるよりも先に、喜びを感じてしまう。彼女が久樹を心配しているという状況に、嬉しさがこみ上げてくる。
傍から見ると、自分はきっと奇妙に違いない。相手の言葉にまともに反応もしないで、顔を赤くして相手を見つめている。本当に、初恋でもないのに、おかしなことだった。
……いや、案外そうでもないかもしれない。「初恋」を経験済みだと思っているが、本当にそうだろうか。
ガタンと椅子を引く音がして、あれよあれよという間に、唯花がテーブルを回って久樹のそばまで来た。見上げた彼女の表情は、ひどく心配そうだ。
額に手を当てられ、心臓が口から出るかと思うほどに飛び上がった。もちろん内心でのことで、体は椅子に根が生えたように硬直していた。
「やっぱり熱がありますよ。医務室に行かれた方が──」
と、久樹の手を引いて立ち上がらせようとするのを、慌てて振り払った。勢いの強さに唯花は目を見張ったし、久樹自身もしまったとは思ったが、やり直すことはできない。
「あっ、その……悪い、いや、えっと」
彼女が目の前にいると、よく回るはずの口が、とんだ役立たずになってしまう。こんなことは経験がなかった。
「ごめん、大丈夫だから。ちょっと……ここの空気でのぼせただけで」
実際、満員の食堂は人いきれで、初夏の陽気も手伝って少しばかり汗ばむ空気だった。男性社員の中には、ハンカチやおしぼりのタオルで顔を拭いている者もいる。
そのおかげで、唯花もいちおうは、久樹の言い訳を信じたようだ。心配そうな表情は崩していないが。
「そうですか、ならいいんですけど……でも、暑いのも体に良くないですから気をつけてくださいね」
「ああ。ありがとう」