月へとのばす指
──だが、彼女の顔ぐらいは見たい。その感情が、久樹に扉の前から去ることをためらわせていた。何か、部屋に入る適当な口実はないものか……
「次長、どうかなさいました?」
声に驚いて振り返ると、視線の先には唯花当人がいた。
湯飲みやカップを乗せたお盆を持っているところからすると、お茶を入れに行って戻ってきたのだろう。すぐに扉を開けてやるべき状況だったが、久樹は動けずにいた。
「何か、手続きでもおありですか?」
彼女の丁寧語が、今はひどく気に障る。そんなふうに話してほしくない、もっとラフに、親しく話がしたいのに。ただの顔見知りではなく、もっと近しく──
「あの……」
当惑した表情の唯花が、気づけばすぐ近くにいた。飲み物の入った湯飲みやコーヒーが満載のお盆を抱えて、困ったように部屋の扉と久樹を見ている。はっ、とようやく今の状況を認識し直し、必死に考えた。
「あ、ああ悪い。その、慶弔の休みがどうなってるか、確認したくて」
「慶弔……ああ、弟さんのご結婚に関してですね。表を持ってきますからお待ちください。
すみません、ドアを開けていただいてよろしいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
にこりと微笑んだ唯花が、今この時、久樹には世界で一番美しい存在に見えた。我ながらぼーっとした顔で、閉まる扉を見つめていたに違いなかった。
……どうやら、かなり重症らしい、と自分で思う。
笑顔ひとつでこんなにも、喜びと幸せを感じてしまうなんて。彼女はきっと、何気ない、社交辞令のつもりだろうに。
「お待たせしました、こちらになります」
かちゃりと扉が開き、唯花が再び顔を出す。
手にしたA4サイズの紙を差し出され、久樹は「どうも」となぜか無愛想な声で受け取ってしまい、内心焦った。だが唯花は気にしていないようで、
「お手続きの際にはまたお声掛けくださいね。では」
微笑みを保ったままそう言い、部屋の中へ戻っていく。
一連の動きを、久樹はまた、ぼんやりと見送ることしかできなかった。……そうすることしか、できずにいた。
彼女とは、同じ会社の社員で、ただの顔見知り。仕事以外の会話を気軽に交わせる、それほどの親しさはないのだ。
──さほど親しくない、という事実に今さらながら、打ちのめされるような思いを感じた。