月へとのばす指
「と、ところで館野さん」
「はい」
「……その敬語なんだけど、いらないから」
「えっ?」
「俺、次長っつっても名ばかりだし、俺の方が年下だし。できれば普通に話してほしいんだけど」
「え、それは……無理ですよ、だって上役の方ですから」
「そうかもしれないけど、落ち着かないんだ」
「いえ、でも。やっぱりダメです」
きっぱりとした口調は、この件に関して彼女が譲らないでいるだろうことを表している。久樹としてはできることなら普通に、タメ口で会話したいのだ。だがこの様子では、今のところは絶対に無理だろう。そう思わざるを得ない。
「じゃあせめて、次長はやめてくれないかな。名前で呼んでほしい」
「……藤城さん、ですか?」
「──そう」
「わかりました。でも人前では次長とお呼びしますので」
唯花の断固とした口調には、うなずかざるを得なかった。彼女としてはそれが最大の譲歩なのだろう。とても強情だと思ったが、その性質すら、今の久樹には好ましく思えた。
「それじゃ失礼します。くどいようですけど、絶対に涼しい所で休んでくださいね」
「わかったよ、……ありがとう」
「いいえ」
にこりと笑って、唯花はベンチから立ち上がった。引き止めたい気持ちはあったが、彼女にも用事があるのだろうし、いつまでも面倒をかけるわけには──
「……あれ?」
唯花が去ってしまってから、久樹は一人ごちる。
そういえば彼女は、なぜここにいたのだろう? ここは、会社の最寄り駅とは違う。そうであったとしても今は平日の午前中、とっくに始業時間は過ぎている。
今日は出社していないのか。だが何故……?
ホームから線路の向こう、住宅やビルが並ぶ方向を見ているうちに、ひとつの建物に目が留まった。このエリアでは名のしれた、大きな総合病院である。
もしや、病院に用事があったのか。それともこれから行くのか。だとしたら、どうして?
どうして、理由を尋ねなかったのだろう。彼女が隣にいる間にそこまで思い至らなかったのを、悔やんだ。
階段を下りながら、唯花は鼓動の速まる胸をなんとか静めようとしていた。まさか、ここで知っている相手に──彼に会うとは思わなかった。
だが声をかけた時は、会社の顔見知りかもしれないとか、そういうことは考えなかった。見るからに具合が悪そうな様子を、性分として放ってはおけなかっただけだ。