月へとのばす指
唯花が何かを言いかけるのと同時に、チャイムが鳴り響いた。昼休み終了の知らせだ。
油断した瞬間にぱっと手が振り払われた。唯花がすかさず立ち上がり、休憩室の出入口を目指して駆ける。
「っ、館野さんっ」
呼ばわると、唯花は扉を開けかけた姿勢で足を止めた。そのまま上半身だけ振り返り、こちらに頭を下げる。
「ごめんなさい」
涙混じりに聞こえる声を残して、今度こそ唯花は休憩室を出ていった。床に、飲みかけの水のペットボトルを落としたまま。
総務の部屋に駆け込み席に着くと、隣の席の同僚が首を傾げながら声をかけてきた。
「どうしたの館野さん、戻り遅かったね」
「すみません、ちょっと休憩室でぼんやりしちゃって」
「……あれ、顔が赤いよ。熱?」
「え、あ、違うと思います。走ってきたから」
「そう? 大丈夫ならいいけど」
と言う同僚に頭を下げ、部長席に目をやると、予想通り会話を聞いていたらしい部長がこちらを見ている。申し訳ありません、の意を込めて会釈すると、部長は何か言いたげな顔をしつつもうなずいた。
思わぬ事態で五分、戻るのが遅れてしまった。取り返さなければと午後回しにしていた書類の作成に、唯花は手をつける。
その日は、中途入社の人員に関わる書類作成や各種の手配──保険加入手続きや制服の発注などが複数件あったため、午後も十五時頃までは忙しかった。逆に言えば、それまでは基本的に仕事に集中していられた。わずかな合間に思い出されてくる光景には目をつぶって。
だが仕事が落ち着き、急ぐ案件がいったん途切れると、頭の中を昼休みの出来事が大きく占めるようになってくる。
ちょうど十五時台の休憩の順番が回ってきたので、唯花はそれを利用して、気分を落ち着けにお手洗いに行く。誰もいないタイミングだったため、洗面台に手をついて、盛大に息を吐いた。
数時間前を思い出すと、今でも心臓が落ち着かない。
……まさか、彼にあんなことを言われるなんて。
御曹司らしくないところのある久樹に、好感を持ってはいた。お坊ちゃんなのに仕事を一生懸命している、真面目で、ちょっと不器用そうな人だなと。
だが、それ以上の特別視をしていたわけでは決してない。
逆もしかりだと思っていた。相手にとって唯花は、顔見知りの事務職社員以上ではないと。
それゆえに、あんなことは想像もしていなかった。