月へとのばす指
久樹の予想通り、翌日にはすでに、見合いの話は社内で知るものの方が少ない、という程度にまで広まった。
少なくとも久樹の認識はそうだった。何しろ、翌日の出勤後、会う人すべてに漏れなく言及されたのだ。絶好の話題と考えてからかってくる同期、おめでとうございますと気の早い祝いを言う部下。上司である部長にいたっては「式の日取りは早めに知らせてほしいな」などと言う始末。
日取りどころか、会ってもいないというのに。何がどうしてそんな、飛躍した認識になっているのか。いちおう噂はまだ、久樹が社長である父親に見合いを勧められた、という内容でとどまっているはずなのだが。
この分では、取引先に広まるのも時間の問題だろう。父親にはもう一度念を押して、断るつもりだと言っておく方が良さそうだ。
そんなふうに考えながら午前の仕事を終え、昼休憩も過ごした。
そして午後一番で、顧客と会う約束があったため、外出の用意をしてエレベーターホールに向かう。他に誰も同じタイミングでは出てこなかったから、ホールには誰もいないだろう。と思っていたが、先客が一人いた。
その姿に目を見張る。こちらの気配に気づいた相手も、振り返って目を見開いた。
何かの書類を抱えて立っているのは、唯花だった。
「……こんにちは。お疲れ様です」
「こ、こんにちは」
多少口ごもりつつ挨拶に応じ、「どうしてここに?」と疑問を口にする。
「あ、営業で中途入社の人がいて、保険の手続きで。書類がまだ出ていなかったので、受け取りに来たんです」
なるほど、と久樹はうなずく。うなずきはしたが、それ以上に何か反応することができない。彼女とまともに会うのはあの日以来──告白をして以来なのだ。
会えたのは嬉しいが、非常に気まずい。
早くエレベーターが来てほしいような、そうでないような複雑な気持ちを抱いていると、唯花が「あの」と声をかけてきた。心臓が口から飛び出す心地がした。
「え、何?」
「お見合い、なさるんですって?」
だが彼女の口から出たのは、期待したような内容とはかけ離れた言葉だった。そうだった、彼女だけが聞いていないなんて、そんな都合のいい話があるはずない。
「あ、そ、それは」
「いいお家のお嬢さんらしいですね。よかったですね」