月へとのばす指
にっこりと唯花は笑う。その表情の中に、どこかぎこちないものがあるような気がするのは、久樹の希望的観測だろうか。しかし。
「──よかった?」
乾いた声がこぼれた。その響きに唯花は首を傾げ、うろたえたように言葉を紡ぐ。
「え、だって……いい方なんでしょう? 高井産業の重役のお嬢さんだって聞きましたよ」
どうして彼女がそんなことを知っているのだろう。見合い写真や釣書を公表したわけでもないのに。もしかしたら功貴があちこちでしゃべったのか──あの弟のことだから直接、唯花に教えに行った可能性もある。
客観的に見れば確かに、良い話なのだろう。だが久樹にとっては違う。良いどころか迷惑な話でしかない。
そう思わせている張本人の彼女に、見合い話を祝福されるなど、苛立ちの原因にしかならなかった。
「俺がその話、断るつもりだって言っても?」
「…………え」
抑えた声で言うと、唯花は顔色を変えた。まずいことを言ってしまった、そう書いてあるかのような表情になる。
そのタイミングで、上へ行くエレベーターが到着した。
失礼します、と早口で小さく言い、唯花はエレベーターに駆け込んだ。チン、という音とともに扉が閉まり、姿はすぐ見えなくなる。それと同時に、下へ行くエレベーターも到着した。
乗り込み、一階のボタンを押しながら、久樹は複雑な感情がわき上がるのを感じていた。
……彼女への想いが受け入れられないなら、胸に秘めようと一度は考えた。
だけど、それは無理だと、ついさっき思わされた。
唯花が好きだ。
今まで、他のどの女にも感じたことのない強さで。
叶うならば力ずくでも手に入れたい──そんな衝動が頭をもたげるほどに。
数日後。退社時間はとうに過ぎた、八時少し前。
その日久樹は、午後に取引先で出席した会議が長引き、さらには部下の確認ミスが原因で起きた顧客からのクレーム対応に追われ、気づくと時計は六時過ぎを指していた。
毎週水曜日はいわゆる「ノー残業デー」であり、管理職も含め、規定退社時刻の五時半で終業して帰ることが推奨されている。だが何事にも例外はあるもので、今日も、五時を過ぎると特別残業申請で部長の席を訪れる者が数人いた。