月へとのばす指

 とはいえ、彼らも六時半過ぎには全員退社している。久樹がこんな時間まで残っていたのは、明日会う顧客に提出する見積書の最終確認を行い、明後日の会議で出す議題を説明するためのデータを作っていたためだった。

 なんとかまとまったので、明朝、どちらも部長に確認してもらえば完了する。ほっとした気分でパソコンの電源を落とし、机の引き出しに施錠して席を立った。

 エレベーターに乗り込んで四階のボタンを押す。一階まで行ってもよかったが、今晩はそこから階段で下りたい気分だった。

 四階のフロアは、当然ながら照明が落とされ薄暗い。吹き抜けの下から届く一階の照明でぼんやりと、社員食堂の入り口やメニュー見本の並んだウインドウの輪郭が浮かび上がっている。

 薄明かりと感覚を頼りに階段へと歩を進め、下り始める。四階から見下ろすと、吹き抜けの高さをさらに感じて少しばかり怖くなる。だがこの、吸い込まれそうな錯覚を覚える光景が、久樹は嫌いではなかった。

 これだけ大きな吹き抜けを擁した自社ビルを持てるのは、フジシロホールディングスの実績の賜物だ。そしてその実績は、社員一人一人の努力の結晶でもある。
 仮に社長にはならないにしても、将来的にこの会社を背負う一員に自分はなる。フジシロの看板と、社員の生活を守るため、研鑽と経験を積んでいかなければいけない。

 だからと言って、自分のプライベートまで、仕事の犠牲にしようとは思わないが。純粋に好意を持っての結果ならともかく、家や会社の安定のための結婚はごめんだ。

 そんなことを考えながら階段を一階まで下りた時、受付のカウンターの陰で何かが動くのを見た。

 すでに正面入口は閉鎖されている。建物裏に出る社員通用口からしか出入りはできないはずだ。
 ……もしや、ビル荒らしを狙う輩が潜んでいて、完全に無人になる時を待っているのではないか。通用口の脇に詰めている警備員に知らせに行くべきか、それとも。

 しばらく迷って、久樹はカウンターの方へ足を向けた。もしただの見間違いか勘違いで警備員を煩わせる結果になったら申し訳ない。危ないかもしれないとも思ったが、何にせよもう一度確認してからと考えた。

 目を凝らすと、入口の反対側、ビルの外側からは見えない方の陰に、確かに誰かがいる。近づいて、先ほどとは違う意味で、驚いた。
 そこに膝をつき、うずくまっていたのは。

「館野さん?」
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