月へとのばす指

 メモに、他に何も──携帯番号なども書き残さなかったのは、唯花の中では、昨夜のことは本当に昨夜限りのつもりだからだろう。彼女の決意をあらためて知らされたようで、ずしりと久樹の心が重くなる。

 だがこんなことで落ち込んでいる場合ではない。
 なんとか、唯花に連絡を取るか、家に行くかしなければ。言いにくいとか恥ずかしいとか、甘えたことは言っていられないのだ。


 浅い眠りから覚めて、はっ、とまぶたを開く。

 ──ここは、自分の家の、自分のベッドの上だ。
 昨日から何度も、確かめるように思ったことをまた唯花は思って、横たわったままでふうと息を吐いた。

 しばらくそうしているうちに喉の渇きを覚えて、起きあがろうと身じろぎする。スマートフォンの時計は午後一時過ぎを表示していた。

 ……まだ、手足や節々が少し痛む。倦怠感も抜けない。

 体を半分引きずるように動かし、キッチンにたどり着く。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出しつつ、そういえば今日はまだ何も食べていないと思って、ロールパンと作り置きのポテトサラダも取り出した。
 パンに切り込みを入れてサラダを適量挟む。

 即席サンドと水のボトルをテーブルに置き、椅子に座ってもそもそと、遅い昼食を取った。食べた後、側に置いたピルケースから錠剤を取り出し、水で流し込む。

 そうしてからもう一度、今度は深く、息を吐いた。
 昨日の朝、帰ってきてから、よく眠れていなかった。

 二日前の夜──あんなことになるとは思っていなかった。いや、違う。
 正確に言うなら、久樹の家に行くと決めた時点で、何か起こるかもしれないという思いが頭をよぎったのだ。しばらく前に彼に交際を申し込まれたことを、忘れていたわけではなかったから。

 とはいえロビーで声をかけられたその時は、体調のせいで頭がよく回らず、きっぱり断るだけの気力も出せなかった。
 久樹の家に着いてからは、すぐに気を失ってしまったし、目を覚ましたのは完全に夜中だった。しかし、否、だからこそ唯花は、一刻も早く部屋を後にしようと考えたのだ。

 だけど──彼に抱きしめられて、求められて、それを嫌だと思わなかった。その時に、運命は決まった。彼のものになることを、唯花は自分で選んだのだ。

 あのひとときを、昨日から何度も、夢に見る。
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