月へとのばす指

 男の人に求められて体を開くことを、ずっと、怖いものだと考えてきた。だから学生時代に付き合った人にも、結局は肌を許せずに別れた。

 久樹に対しても、その怖さを払拭できていたわけではなかった。初めての女が見舞われる痛みについては、恋愛経験の少ない唯花であっても聞いたことがある。

 実際、まったく痛くなかったわけではない。けれど事前に予想していたほどには、苦しくなかった。なおかつ──ひとつにつながることがあれほど心地良く、幸せを感じるものだとは、知らなかった。

 二度抱かれて、唯花は初めて、女の喜びを味わった。
 けれど、その幸福感がいつまでも続くものではないと、自分は知っている。だから、久樹が目覚める前に部屋を後にしたのだ。嘘偽りない気持ちをメモに残して。

 あれ以上そばにいたら、望んでしまいそうだった。これから先、もっと先も、彼とともに過ごすことを。だけどそれは無理なのだ……久樹には、唯花よりもずっと、ふさわしい人がいる。

(私は、あの人にとってふさわしい女じゃない)

 それは最初からわかっていたことだ──相手が彼でなくても。
 だからこそ、誰とも付き合わない、ましてや結婚など一生しないと、ずっと前に決めたのだから。

 ふう、と小さくため息をついて視線を落とすと、パジャマの合わせからのぞく肌に散る、赤く小さな点が目に入った。
 二日近く経っても、まだ消えきっていない。今日はまだ鏡を見ていないが、おそらく首筋に付いたいくつかの痕も同様だろう。久樹の唇が残していった痕──あの時間が現実だったことの証明。

 じわりと心に点いた火が、肌をちりちりと刺激する。
 繰り返し夢の中で感じた、久樹の声や匂い、肌に触れてくる指や唇の感触が、またよみがえってくる。ぞわっと、急激に肌が総毛立った。

 ぎゅっと目をつぶり拳を握りしめ、唯花はその感覚を必死で抑えようとした。その時。
 ピンポーン、と部屋のインターホンが鳴った。

 はっと目を開けてスマートフォンの時計を見ると、午後二時近く。何か、宅配や郵便が来る予定はあっただろうか、とまず考えた。実家からの仕送り、というか母が食品や細々した物を送ってくるのはだいたい月初で、それは今月もう送られてきている。
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