月へとのばす指
「わかった。おまえがそこまで言うのなら、ちゃんとした女性なんだろう。もう何も言うまい」
「ありがとうございます」
ほっとして、久樹は頭を下げた。問題のひとつはこれで片が付けられた。唯花の強情さを思えば、今ここでほっとしているどころではないのだが。
「それにしても」
と、父親が窓の外に目を向けて、独り言のように言い出した。
「おまえとあの子がこういうふうになるとはな」
「え?」
今、父親はなんと言ったろう。「あの子」?
「館野も、話を聞いたら驚くだろうな」
「ち、ちょっと待てよ親父」
会社モードを取り払い、久樹は身内の口調で父親に問う。
「どういうことだよ、彼女の──館野さん、のこと知ってるのか」
急いた声で尋ねる久樹に、父親はわずかに目を見張って、爆弾を投げてきた。とても何気ない調子で。
「なんだ、気づいてなかったのか。あの子は私の学生時代の友人の娘さんだぞ。おまえたちが子供の頃はよく家族ぐるみで会ってたんだが」
その爆弾は、急速に久樹の頭を冴えさせ、底に眠っていた記憶を呼び起こした。──たての、ゆいか。
『わたし、たてのゆいかっていうの。あなたは?』
『ふじじろひさき。こっちはおとうとのこうき』
思い出した。小学校に上がる前、父親の友人一家と、年に何回かは会って食事会をしたり、遠出をしたりしていたのだった。子供同士は年が近くて、大人たちが話している間はよく遊んでいたものだ。
あの時の、ふたつ年上だった、大人びた女の子。
あれが、唯花だったなんて。
(そうか──それで、功貴の奴)
弟があんな、思わせぶりなことを言っていた謎が解けた。
二人が妙に親しげに会話していたのが何故なのかも。
きっと、二人はお互いが子供の頃に会っていたことをわかっていたのだ。だからあの時は「懐かしいね」とかなんとかいうふうに、昔話を交わしていたのだろう。
……ということは、唯花は、久樹のことも気づいていたに違いない。だが何も言わなかった。
その事実に少なからず、ショックを感じた。功貴とはあんなに楽しそうに話していたのに。たとえ、先に気づいたのは功貴の方であって、唯花は言われて思い出したのだとしても。
よほど呆然とした表情だったのだろう、父親がやれやれと言いたげな声音で「本当にわかってなかったんだな」と言った。