月へとのばす指

「まあ、二十年近く前だからな。おまえが小学校に入ったぐらいの頃に、館野は地元に戻ったから。奥さんの実家の会社を継ぐって言ってな」

 そこで父親は言葉を切り、何事か考えるように顎に拳を当てる。

「唯花ちゃんはあの頃から可愛らしい子だったが、ずいぶん綺麗になったらしいな。だがよくよく気をつけろよ、確か唯花ちゃんは」
「悪い、親父。急用思い出した」
「あ、おい」

 父親が呼び止めるのもかまわずに、久樹は社長室を飛び出す。

 今の今まで、どうして唯花は何も言わなかったのだろう。
 プライベートと仕事を混同したくなかったのか。
 こちらが忘れている様子だから、彼女も同じ体を装ったのか。

 ……深い意味はないのかもしれない。

 二十年も前の、子供の頃の出来事だ。わざわざ言うことでもないと唯花が判断したところで、何も悪いことはない。

 ただ自分が、久樹だけがそれに気づいていなかった、忘れてしまっていた事実に、勝手にショックを受けているだけで。
 ──初恋の相手だったのに。

 あの頃から唯花は、父親の言った通り、可愛らしい少女だった。年齢以上にしっかりしていて、子供っぽい自分たち兄弟によく付き合い、面倒を見てくれた。
 姉のような存在に対する憧れだったのかもしれないが、今考えるとあれが、家族以外の異性を好ましく思った最初だった。彼女に会う日が楽しみで、会うといつも、心がほんのりと温かくなった。

 幼いながら、彼女を独り占めしたいと思った時もあった。

 今とまったく変わらない、唯花に対する感情に、我ながら苦笑いせざるを得ない。彼女を独占したいという思いが、二十年を経た現在でも自分の中に存在していることに。

 ──唯花を、どうしても手に入れたい。

 父親の許しは得た。あとは彼女の気持ち次第だ。それが最も難題ではあろうが、自分はどうしても唯花が欲しい。彼女以外の女など必要ない。

 始業時間は迫っていたが、今は仕事どころではなかった。
 エレベーターで十階に下り、総務部へと走る。

「おはようございます。どうなさいました?」

 だが、駆け込んだ部室に唯花の姿はなかった。応対した別の女子社員に尋ねると、一階下の庶務課に行ったという。

「ありがとう」

 礼を言うのもそこそこに部屋を出る。間違いなく奇妙に思われているだろうが、気にしている余裕はなかった。
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