月へとのばす指
久樹はエレベーターホールとは反対側にある、非常階段に向かった。一階分ならエレベーターを待つよりそちらの方がたぶん早い。
重い扉を開け、十階から九階へ駆け下りると、タイミングを見計らったかのように目の前の扉が開いた。
「……あ」
扉を開けたのは唯花だった──口を小さく開け、コピー用紙の段ボール箱を抱えたまま、こちらを見上げている。
「館野さ……唯花」
「すみません。急ぐので失礼します」
早口でそう言い、久樹の横をすり抜ける。その拍子に箱の側面が久樹の腕に当たったが、唯花は気づかない様子で階段を上り始めた。
彼女のような細身の女性には、A4サイズの用紙五百枚包みが五冊入った段ボール箱は、いかにも重そうだった。俺が持つから、と声をかけようとした久樹の目前で、階段を三段ほど上った唯花の動きが、ぴたりと止まる。
まだ声をかけていないのにどうしたのだろう、と思う間もなく、唯花がふらついた。ただのふらつき方ではなく、抱えた箱を取り落とすほどの。
ごろごろと転がっていった箱が、階段室の扉にぶつかり、小さくない音を立てた。だがもちろん、そんなことにかまっているような状況ではなかった。
唯花が、階段を下りるでも上るでもなく、その場に崩れ落ちたのだ。
「唯花?」
呼ばわりながら近寄ると、彼女は片手で階段の角をつかみ、もう片手で胸を押さえていた。表情はこわばり、目を前方に向けたまま、息を詰めている。
明らかに尋常な様子ではなかった。
「どうしたんだ、苦しいのか」
再び呼びかけても彼女は答えない。久樹を振り向きもしない。だんだんとうつむいていく顔とともに、姿勢も丸くなっていく。胸を押さえる手にも階段をつかむ手にもさらに力が込められ、握りしめられて白くなっていた。
「……う」
「唯花?」
苦しげな声をもらしたかと思った直後、彼女の体が、階段にすがりつくように倒れかかった。完全に倒れ込む前に慌てて支え、引き起こす。
仰向けにした彼女は、目を閉じていた。血の気のない顔で浅い呼吸を繰り返している。頬を軽く叩いても眉をしかめもせず、まぶたも開けない。半ば以上意識がうつろである様子だった。
唯花を支えながらなんとかスマートフォンを取り出し、久樹は119に通報した。ビルの住所と今の居場所を告げ、次いで受付の外線に連絡する。