月へとのばす指
「営業の藤城だ。もう少ししたら救急車が来るから、十階と九階の間の非常階段に来るよう、誰か案内してきてくれ」
電話の向こうの受付嬢が「え、どうしたんですか」と焦った声で応じる。久樹は動揺を抑えきれない声で答えた。
「総務の館野さんが倒れた。すまないが総務部にも連絡してくれるか」
「は、はい」
数分後に駆けつけた総務部の人間と、さらに数分遅れて到着した救急隊員が見たのは、青白い顔で気を失った唯花と、負けず劣らず蒼白な顔をして彼女を抱き抱える久樹の姿だった。
病院に到着した後、唯花は救急センターからすぐさま集中治療室に運び込まれた。腕に点滴を付け、鼻と口を酸素マスクで覆われた彼女は、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しく見えた。
身内でも上司でもない久樹が同行できたのは、とっさに口にしてしまった「婚約者」という名乗りを救急隊員が受け入れたからだった。言ってから周囲に集まった社員たちの驚きに気づいて「まずかったか」とも思ったが、言い訳や撤回をできる状況ではなかった。
それに、彼女が受け入れてくれればいずれそれは嘘ではなくなる。受け入れてくれる可能性があると思えばこそ、久樹は思わず「彼女の婚約者です」と口にしたのだった。
だが、ガラス窓越しに処置の様子を見ている今は、ただただ不安しかない。
『おそらく、心臓に問題があると思います』
唯花が倒れた時の様子を久樹から聞いた救急隊員は、病院への連絡の中で、そう説明していた。
(心臓……?)
そんなはずがない。彼女はいつも普通にしていたではないか──いや、違う。
二人で過ごしたあの夜、彼女は、確かに体調が悪そうだった。だから部屋に連れていったのだ。
しばらく休んで、体調は戻ったと思っていた。けれどあれから一週間、彼女は会社を休んだ。
風邪を引いて熱を出した、と会社には説明していたようだが、本当は違ったのではないか。あの夜、久樹が無理をさせたことで、負担がかかってしまったのではなかったか──
ガラス窓を離れ、ふらふらと、廊下の反対側にあるベンチに座り込む。
知らなかったとはいえ、なんてことをしてしまったのか。
唯花はいったいどうなるのか。
窓の向こうで慌ただしく動き回る医師や看護師から、目をそらした。
──もし、彼女がこのまま、居なくなってしまったら。