月へとのばす指
「そうですか、では連絡先がわかりましたら、ナースステーションの看護師にお知らせください。ご家族に説明したいことがありますので」
「わかりました」
久樹が答えると、よろしく、というふうに医者はうなずいて、廊下の向こうへと去っていく。医者に背を向ける形で、久樹はエレベーターホールへと向かった。外に出て電話をかけるために。
エレベーターを待つ間も、乗り込んでからも、脳裏にめぐるのは唯花のあの言葉だった。
『私、お付き合いも結婚も誰ともしないって決めてるんです』
そんなふうに決心した──しなければならなかった彼女の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうな心地がする。病気が発覚した頃の彼女は非常に若かったはずだ。おそらく十代だったのではないだろうか。
そんな年頃で、結婚も出産も、誰かと付き合うことすらあきらめてしまうなんて。
彼女の泣き出しそうだった表情を思った。
──そして、あの夜の彼女を思った。
どんな気持ちであの時、久樹に抱かれようと決めたのだろう。逡巡、戸惑い、恐れ、迷い……どれだけの不安を払いのけて決意してくれたのか。
エレベーターが一階に着いた時、久樹は自分の目頭が熱くなっていることに気づいた。それに気を取られて、エレベーター待ちをしていた人にぶつかりそうになる。
「あ、すみません」
「……いえ」
こちらの顔を見た相手に、戸惑ったように返された。
そんなに自分は今、見て困るような表情をしているのだろうか。そうかもしれない、と内心苦笑いした。
総合受付カウンターのある待合エリアを通り抜け、正面入口から外へ出る。スマートフォンを取り出し、父親の個人用番号を呼び出した。三コール目で繋がる。
「もしもし」
『久樹か。何だどうした』
「……その、教えてほしいことがあって」
『何だ?』
「実は、────」
事情を説明し、しばらく話をした後で、唯花の実家の番号を聞きだした。
『待てよ、今の時間だと仕事中か。会社の番号も教えておくぞ。先にそちらにかけるように伝えろ』
「わかった」
『言うことは言ったが、おまえ、責任は果たすんだぞ』
「わかってる」
『それならいい。私はこれ以上何も言わん』
「……ごめん親父。ありがとう」
心からそう伝えて、通話を終える。