月へとのばす指
「はい」
父親と唯花は親しげに笑い合う。家族ぐるみの知り合いであるのだからそれで普通なのだが、自分が置き去りにされているように久樹は感じた。
言葉の挟みどころを見つけられずにいる久樹を見て、父親は第一秘書と小声で何事か話し、再び振り返る。
「久樹、唯花ちゃんに話があるんだろう。部屋を貸すから話していけ」
「「え」」
ふたつの声が重なる。久樹と、唯花の。
「私は約束があって出かけるから、遠慮するな。ただし社内で変なことはするなよ」
父親のからかうような口調に久樹は絶句し、唯花は顔を赤らめた。そんな二人に、父親は年長者の余裕を含んだ笑みを向ける。
「唯花ちゃん、すまないね。馬鹿息子の話を聞いてやってくれるか」
「……わかりました」
ためらいがちに唯花が言った。それにうなずいて、父親は今度は久樹に近づき、肩に手を置く。成長した今、手のサイズは久樹もさほど変わりないはずだが、肩に置かれた手は妙に大きく感じられた。
「結果がどうなろうと、言いたいことは全部言え。これが最後かもしれないからな」
意味深な発言に、久樹は目を見張る。だが父親はそれ以上言及せず、振り返ることもなく、秘書を伴ってエレベーターへ乗り込んでいった。
フロアには、久樹と唯花の二人が残された。振り返ると、唯花はこちらの視線におびえたように肩を揺らし、うつむく。その仕草で、きっと彼女は、自分には何も言わずに退職するつもりだったのだろうと思った。
少なからず傷ついた気持ちを胸に納め、久樹は唯花に声をかける。
「話、したいからこっち来て」
「…………」
唯花は返事をしなかったが、久樹が移動するのに従って、数歩後ろを粛々と付いてきた。社長室の応接セットのソファを勧めると、彼女は黙って腰を下ろす。
久樹はその隣に、ごく自然に座った。すると唯花は、ほぼ同時に体をずらして一人分の隙間を空けた。
彼女が自分から遠ざかろうとしている意志を明確に感じて、久樹の傷ついた気持ちは胸の内で悲鳴を上げる。比喩でなく、実際に胸が痛むのを感じた。
「話って、なんでしょう」
先に口を開いたのは唯花の方だった。
「席の片づけとか、今日中にしなくてはいけないので、手短に願えますか」
再会した頃のような、他人行儀な口調。そんなことにもいちいち感情が傷ついてしまう、自分の弱さが嫌になる。