月へとのばす指

 だが、理由を思ったのは、後からのことだった。
 久樹が言い返せずにいるうちに、唯花は微笑んだまま、別れを告げた。

「今までありがとう。さよなら」

 彼女が部屋を出ていき、扉が閉まっても、エレベーターが到着する音が聞こえてもなお、久樹はその場に立ち尽くしたままでいた。
 エレベーターが下がっていったと思われる頃になってようやく、張りつめていた感情がゆるんだかのように、久樹の目から二度目の涙がこぼれた。

 ◇ ◇ ◇

「……はい、ご注文の変更承りました。失礼いたします」

 顧客からかかってきた電話を終え、唯花は受話器を置いた。事務所内を見回し、声を張り上げる。

「中崎製パン工場さん、明日朝のお弁当、三十個から四十個に変更でーす」
「「了解です!」」

 室内にいた社員全員が、唱和する形で応じた。現在入っている受注一覧のホワイトボードを一人が書き換え、別の一人が事務所に隣接する工場に連絡を入れる。

「工場長、受注数の変更が入りました。中崎製パンの──」
「中崎の注文増えたのか。ということは新製品の受注かな」
「お疲れ様です、部長」
「おつかれっす!」

 外から戻ってきたばかりの営業部長に気づいた社員が、それぞれ挨拶をする。すれ違いに外回りへ出ていく若い男性社員の物言いに、誰もがこっそり苦笑した。
 受注管理ソフトで、先ほど受けた変更の入力をしていた唯花は、部長が自席に着くのを見計らって立ち上がり、声をかけた。

「篠山部長、お疲れ様です。お茶をお淹れしましょうか」
「ああ、すまない。お願いするよ」

 給湯室で煎茶を淹れ、事務所に戻る。

「どうぞ」
「ありがとう。お嬢さん、じゃなくて館野さんの声、外まで聞こえてたよ」
「あ、すみません。大きすぎましたか」
「いや構わないんだがね。そんなに馬鹿正直に、大声を張り上げなくてもいいんだよ──体が本調子じゃないんだし」

 最後の部分を小声で言った篠山部長に、唯花は軽く笑んで答える。

「注文変更時の決まりですから。それにこの程度で今さら、体調崩したりはしません」
「そうかい? だけど退院してやっと四ヶ月じゃ」
「仕事に戻りますね」

 部長の言葉をさえぎり、笑顔を保ったまま唯花は言った。
 自分の席に戻り、先ほどの変更が保存されているのを確認してから、ふうと息をつく。

 ──唯花が実家に戻ってきて、四ヶ月が経っていた。
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