月へとのばす指
父親の姓を名乗っているが、唯花の実家は母方の祖父母が経営していた給食弁当工場である。曾祖父が始めた小さな弁当屋から祖父母が手を広げて、会社単位での注文も受けるようになり、今では工場を二棟持つ地域を代表する会社となった。
父親は入り婿ではなかったものの、祖父が体調を崩して社長を辞任する際、事業を引き継ぐ約束で二十年前に入社していた。その約束通り、数年前に四代目社長に就任。母親は専務兼経理部長として、会社の財務管理を担っている。
フジシロホールディングスに入社する前、唯花は約一年間、ここで経理補助および電話番として勤務していた。戻ってきてからは、同じく経理補助と電話番をしつつ、総務事務の経験も活かして働かせてもらっている。
ほとんどの社員は唯花の事情を知っているため、先ほどの篠山部長のように、何かにつけて体調を気遣ってくれる。それはとても有難いのだが、時として、窮屈に感じる時もあった。
そんなふうに扱われるのが嫌だからこそ、フジシロホールディングスの勤務では、持病のことを極力隠していたのだ。知っていたのは社長である「藤城のおじさん」と、総務部長だけであった。
だが隠していたことを後ろめたく感じていたのも事実で、知られてから辞めるまでの間は誰に対しても、また誰からも、ぎこちない接し方になってしまった。
社長、もとい「藤城のおじさん」は『気にしなくていい』と言ってくれたが、申し訳なかったという気持ちはどうしても残る。外の会社で働きたい、一人暮らしがしてみたいと、わがままを押し通してしまった両親に対しても。
結果的に彼らには、ひどく心配をかけてしまった。
だからせめて、家族の目の届くところで残りの人生を過ごす。それが唯花の決めた道だった。
事務所に、チャイムの音が鳴り響く。昼勤務の社員の終業時間を知らせる音だ。
残業のない社員がばらばらと退社していく中、唯花は経理部長、つまり母親がいる隣の経理室へと向かった。
「お母さん、お疲れ。今日はまだ仕事?」
「お疲れ様。そうね、もう少しかかるかしら」
「じゃあ、先に帰って夕ごはんの用意しとくね。今日は冷蔵庫の魚を使ったらいいのかな」
「悪いわね。お願いするわ」
こんなふうに、平日はたいてい、唯花が夕食の支度をする流れになる。父親は今日は夜勤務なので、唯花と入れ替わりに出勤するはずだ。