月へとのばす指
そう考えていたところへ、事務所から「お疲れ様です、社長」といった声が聞こえてきた。
自分の席に戻り、父親に声をかけてから退社する。
今日一日も平穏に過ぎていることを感謝しながら、唯花は実家への道を歩いた。
それからしばらく後の、ある午前中のこと。
「館野さん、今日午後にお客さん来るから」
声をかけてきたのは、唯花が以前働いていた頃からいる、古株の男性営業社員だった。
「そうなんですか? 急ですね。どこの方ですか」
「中崎製パンさん。なんかねえ、今までの営業さんが急病で入院しちゃって、担当者が変わったんだって。バタバタしてて挨拶が遅れて申し訳ありませんって、今朝連絡があってね」
営業の男性は、癖になっているらしい早口で、そんなふうに事情を説明する。慣れていないと聞き取るのは少し難しいので、唯花は相手の話に聴覚を集中させた。
「今までの人って、坂本さんですよね」
「そうそう。話のしやすい人だったんだけどなあ。けど脳梗塞じゃしょうがないよね」
「え……大丈夫なんでしょうか」
「命に別状はないらしいよ。けど後遺症が残るかもしれないらしいから、休職扱いになったって」
前担当者の顔を思い浮かべる。定期的な契約更新のため、数ヶ月おきに訪ねてきていた坂本氏は、唯花の父親より少し年若の、穏やかな雰囲気の人だった。
退職にはまだ間のある年齢だろうに、脳梗塞だなんて──大学生の息子と高校生の娘がいると話していたはず。せめて後遺症が軽くて済みますようにと、唯花は心の中で祈った。
「それで、新しい担当の方のお名前は?」
「……えーと、何だったかな。メモはしたんだけど」
営業の男性は上着のポケットを探るが、見つからないようだ。古株の彼にしては珍しい。
その時、事務所内の時計が十時を知らせる音を鳴らした。
「っと、やばい。十時半に商店街のアポあるんだった。ごめん館野さん、また後で連絡するから」
さらなる早口で言って、男性社員は駆け出していった。
あの様子だともしかしたら、当の新しい担当者が訪ねてくる方が早いかもしれない。そう思っていた唯花の予想は的中した。
昼休みが終わる直前、正面入口のインターホンが鳴ったのである。