月へとのばす指
その時、事務所内には唯花しかいなかった。営業社員は全員出払っており、事務員は全員で商店街まで昼食を食べに行ったまま、戻ってきていない。唯花は電話番の当番で残っていたのだ。
もう一度、インターホンが鳴った。急いで受話装置を取り上げ、応答する。
「はい、真島給食、館野です。お待たせいたしました」
「……えっ」
「え?」
そのまましばらく、無言が続く。
「もしもし、どうなさいました?」
「──あ、申し訳ありません。中崎製パンです。本日、こちらの向井さんとの約束がありまして、伺いました」
向井とは「今日午後にお客さんが来る」と話していた営業社員である。やっぱり、と唯花は思った。件の向井はまだ戻ってきておらず、言っていた連絡も来ないままである。
「はい、承っております。少々お待ちください」
受話装置を置き、念のため髪と制服をちょっとだけ整えてから、正面入口に向かう。途中、スマートフォンがメッセージアプリの着信音を鳴らしたが、後で確認しようと思って見なかった。
──そして、訪ねてきた担当者の顔を見て。
「…………え」
固まってしまった唯花に対し、相手は、ひどく照れくさそうにはにかんだ。それから名刺を取り出して、名乗った。
「中崎製パンの、藤城です」
(……どうして、こんなことになってるんだろう)
昼休みの後からずっと考えていた思いを、唯花はまた心にのぼらせた。
目線の先に、久樹がいる。
もう二度と会わないと思って別れてきた人が、そこに。
いつも通り、終業時間で退社した唯花は、事務所の裏口を出て表に回ったところで足を止めた。正面玄関と道を挟んだ脇に、久樹が立っていたのだ。
昼に事務所を訪ねてきた時の、中崎製パンの社名が入ったジャンパーは脱いで、普通のスーツ姿になっている。見慣れた姿にふと、懐かしいという感情が湧いた。
唯花の姿を認めて、久樹が、照れくさそうな笑顔になる。昼にも見た表情だ。そんな笑い方を見ると、彼が少しではあるが年下なのだと、再確認するような気分だった。
足を止めたままでいると、久樹の方から近づいてきた。
昨日までも会っていたかのように、ごく自然な口調で「お疲れさま」と言われる。
「これから帰るの?」
「……そう、です」
戸惑いが消えないまま、唯花は正直に応じる。
「少し、飲みに行くような時間ない?」