月へとのばす指
「ごめんなさい。家族の夕ごはん、作らないといけないから」
「そうか。なら、送っていくよ」
 今は二月の終わり。少しずつ日照時間は長くなっているものの、六時近くなるとさすがにそこそこ暗い。とはいえ。
「いえ、慣れてる道ですから」
「話がしたいんだ」
 断ったが、感情を抑えた声でそんなふうに言われて、悩んだ。確かに唯花も話したい、聞きたいと思うことはある。
 あの後、十分ほど経って戻ってきた営業の向井と(直前に入ったメッセージは少し遅れることと担当者として久樹の名前を伝えるものだった)、二十分ほど話をして久樹は帰っていった。その時は仕事中だったし突然の出来事に狼狽してもいたので、通りいっぺんの挨拶と会話しかする余裕がなかった。
 ──なぜ、彼がここにいるのか。フジシロホールディングスの跡取り候補として仕事に精を出していたはずの、彼が。
「……わかりました。家はすぐそこですけど」
 言って、唯花は先に立って歩き始めた。久樹は追うように少し早足で、唯花の隣に並ぶ。
「体の調子はどう?」
「おかげさまで落ち着いてます」
「よかった」
 本当にほっとしたように息を漏らしながら、久樹は言った。その様子につい、ほだされそうな気持ちの動きを唯花は感じてしまう。
(勘違いしちゃダメ。この人がほっとしてるのは、責任を感じてるせいなんだから)
 そう言い聞かせている自分の思いつきが、半分はこじつけであることに、本当は気づいている。
 久樹が、唯花の体調に関して責任を感じているのは間違いない事実で、成り行きを考えれば当然でもあるだろう。
 けれど決して、それだけではない。
 恋愛経験が少なく、男女の機微に敏感とは言えない唯花であっても、退職前に彼が言ってくれた言葉に含まれる本気の度合いを測り違えるほど、子供ではない。
 ……だからこそ、離れるべきだと思った。
 久樹が本気の愛情を注ぐ相手は、唯花以外であるべきだ。彼に愛される喜びを味わうのは、彼を生涯支えられる、血を繋いでいける健康な、きちんとした女性でなくてはいけない──そう考えたから。
 それなのに。
「あ、功貴に結婚祝い送ってくれたんだよね。ありがとう」
「いえ。祝日なのに式に出られなくてすみませんでした」
「その祝日も仕事だったんだろ。館野さん……君のお父さんが出席してくれて、うちの親も功貴も喜んでたから」
「……あの」
「ん?」
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