月へとのばす指
「アイスコーヒーのお代わりはいかがですか?」
掛けられた声に顔を上げると、同年代と思われる女性店員がいた。この店は、半額払えば二杯目がお代わりできるというサービスが確かにあるが、店員がわざわざ声を掛けてくる光景は見たことがない。
おそらく久樹の容姿、もしかしたらスーツの仕立ての良さなども見て取って、近づいてきたのかもしれない。自意識過剰だと言われそうだが、そう考えて警戒するぐらいでちょうど良いのだと、経験上知っているのだ。
「いえ、結構です。もう出るので」
久樹がそう言うと、店員は笑みを貼りつけて「そうですか失礼しました」と応じた。一瞬よぎった残念そうな表情は見られていない、と思っているに違いない。
食器を返却口に持って行き、出口へと向かう。先払いシステムのため、レジには行かず通り過ぎた。係の女性ふたりがひそひそと話す声が耳に入る。
心の中でため息をついた。
休むために来たはずなのに、こんなふうに反応されるのでは、そうもいかない。この店には今後なるべく来ない方が良さそうだ。
そんなことを考えてやや憂鬱になりつつ、会社へ戻る。
一階ロビーは人少なだった。とはいえ朝や夕方に比べて、というだけで、それなりに人の行き交いはある。なんといっても二十五階建ての自社ビル、国内だけでなく世界にもネットワークを広げている、フジシロホールディングス本社だ。外回りを終えた営業部員らしい姿や、応接スペースで話をする人影がちらほら見受けられた。
久樹の姿を認め、受付カウンターに座る三人の女子社員が立ち上がり、頭を下げる。手を挙げてそれに応じた時、受付係の一人が、何かに気づいたように顔を上げた。次いで目が見開かれる。
彼女の視線を追うと、エレベーターホールから歩いてきた別の女子社員が、足を滑らせたのか途中で体勢を崩し、手にしていたと思われる書類を床にまき散らしていた。
反射的に駆け寄り、膝をついて手近な数枚を拾い上げる。そうしてから相手に手渡すために顔を上げて、固まった。
女子社員は、帰社初日に見た、彼女だった──館野さん、といったか。
素早く彼女が提げている、社員カードに目をやる。「館野唯花」と書かれていた。ゆか……ゆいかと読むのだろうか?
「あっ、すみま……申し訳ありません!」