人生3度目の悪役姫は物語からの退場を希望する
 春が近いとはいえ、そんな薄着一枚で壁際など身体が冷えないわけがない。時折くしゅんと小さなくしゃみが聞こえたが、彼女が動く様子は全くない。

「せめて、そこのソファでも使えばどうだ?」

 突然のアリアの奇行に彼女を敬い労る気持ちなどすっかり失せたロイがぞんざいにそう声をかけた。

「……いけません、そこは特別な人の席だから」

 震えるような小さな声がそう返ってきただけで、アリアが動く気配はない。ロイは諦めてそれ以上の追求をやめた。
 膠着状態のような重苦しい沈黙。
 そう思っていたのはロイだけだったようで、随分経ってから壁際から微かに規則正しい寝息が聞こえはじめた。
 ロイは気配を消してそっとアリアに近づく。
 自身の身を守るように、果物ナイフをそばに置き、床に身体を横たえて小さく丸まっているアリアの頬には、涙の跡がいく筋も見えた。ロイはそれに触れようとして手を伸ばし、アリアの白い首や寝衣に付着した乾いた血の跡が目に入り手を止めた。

「何故、なんだ?」

 ロイの独り言に、眠っているアリアが答える事はない。
 その寝顔をロイはじっと見つめてため息を漏らす。
 今キルリアと関係を悪化させるわけにはいかない。だからこそ一度しか切れない政略結婚のカードをわざわざ切ったというのに。
 自分は見目もいい方だし、人心掌握にも長けている。相手をその気にさせるのは得意だし、現に婚約式で顔を合わせたときも、今日の結婚式でも、アリアから自分に対しての好意を感じていた。
 御しやすく、操作しやすい、世間知らずなお姫様。先程までのロイのアリアに対しての印象は、間違いなくそれだった。
 それなのに、僅か数時間で彼女に何があったのか?

「……なさい。ごめん、なさい」

 うわ言のようにアリアの口から謝罪の言葉が溢れる。

(きっと、今度は邪魔しません。あなたが真実の愛に辿り着くまでに、ここから追い出したくなるように、立派な悪役姫を演じてみせるから)

「ロイ……様」

(ごめんなさい、あなたの大切な彼女を傷つけて)

 頑なに殿下としか呼ばなかったアリアの口から自分の名が聞かれ、謝罪の相手が自分であるとロイは知る。
 だが、何の謝罪なのかはわからない。眠ったならベッドに運ぼうかとも思ったが、翌朝目が覚めたら次こそ本当に喉を切りかねない。
 ロイはため息を漏らし、果物ナイフを回収したのちぞんざいに毛布を一枚放り投げ、踵を返し自分はベッドに横になった。

「一応、気に留めておくか」

 アリアからの謎の予言。嘘を言っているようにも見えなかった。
 ロイは早朝アリアが目覚めるより早く、部屋を後にし、使用人に指示を出す。
 本人が起きるまで部屋に入らないことと、本人に確認ののち、希望があれば離宮へアリアの身柄を移すようにと。
 夕刻に戻る頃にはアリアは既に本館におらず、その日以降ロイがアリアを夜伽に呼ぶ事はなかった。
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