君を忘れてしまう前に



「あれ、サラ、どうしたの……? あ、ちょっと、」

 サラはドアの側面を持ち、ぐい、と大きくドアを開いた。
 ドアノブを握ったままだったわたしは引っ張られた勢いで練習室から飛び出し、そのままサラの硬い胸に顔から突撃した。

 サラは勢いよく飛び出したわたしをまともに受け止めているというのに微動だにしない。
 ぶつけた鼻を手で押さえながら見上げると、サラはわたしの事なんか気にも止めず練習室の中をじっと見つめていた。
 不機嫌な表情で何を見つめているのだろう、とサラの視線を追いかけて振り向くと、練習室の入口で和馬くんが気まずそうに立っていた。

「和馬が何でここにいんの?」

「……香音さんに用があって」

 二人の間に、ひやりとした冷たい空気が流れ始める。
 この二人は、香音さんを巡って争う恋のライバルでもあるのだ。
 香音さんに会いに来た、と聞いて、サラは面白くないのだろう。
 サラの気持ちも分かるが、ここは誰も悪くない。
 うっとおしがられるのは分かった上で、二人の間に無理やり割って入った。

「今、ちょっと喋ってたんだよね。わたし達、初めましてだったから、ね」

「……ほんのちょっとですけど」

「ふぅん。仁花、行くぞ」

 サラがわたしの腕を強引に引っ張り、歩き出す。
 よろめきそうになりながら、待ってよ、と声をかけるもサラには聞こえていないのか何の返事も返って来ない。

「和馬くん、バタバタしてごめん、またゆっくり話そうね」

 サラに掴まれていないもう一方の手で、和馬くんにバイバイ、と手を振る。

「はい。また、ゆっくり」

 和馬くんの返事を聞いた途端、サラはぴたりと足を止めた。
 そして振り向きざまにわたしの頭に手を置くと、指先にぐっと力を込めた。

「こいつはだめ。コンサートの練習があるから、お前とゆっくり話す時間なんかねーよ」

「え、大丈夫だよ、話す時間くらいあるし……、」

「わざわざクラシックの校舎まで来て? 余裕だな。また悩んで泣いても知らねーからな」

「待って、それは違う! 泣いてないもん!」

「ほら、行くぞ」

 再び腕を掴まれ、半分引き摺られた状態でサラの後について行った。





 大学を出るとすっかり陽が落ちて、星のない都会の夜空が広がっていた。
 冷たい夜風が頬に当たり、練習で火照った身体がすっきりと冷めていく。
 その感覚があまりにも気持ち良くて伸びをすると、怠さと眠気が一気に襲って来た。

 隣を歩くサラに、不機嫌さは微塵も残っていない。
 とりあえずは良かったものの、あれだけ誰かに対して敵意を剥き出しにしたサラを初めて見た。
 それだけ、香音さんを誰にも取られたくないのだ。
 サラの隠れた独占欲を垣間見て、香音さんをどうしても羨ましく思ってしまう。
 わたしもサラに独占されてみたかったな、なんて。
 
「あいつと何喋った?」

「和馬くんと? 大した話はしてないよ。わたしのこと知っててくれてたんだねって話と……あ! サラってわたしの変な話ばっかりしてたんでしょ! ほんと困るわ〜。やめてよね、後輩にいらないこと吹き込むの」

「だってお前、バカなことばっかやってるし」

「それも愛嬌じゃん! どうせ後輩に吹き込むならいいこと吹き込んでよ。もっとわたしのこと、褒めて褒めて」

「お前のどこを褒めんだよ」

「え、そうだな……、明るい、とか?」

「ああ、それはそうかもな。バカだから」

「だからそれをやめてって言ってんのよ!」

 こうして冗談を交わしながら、二人で笑い合ったのは久しぶりな気がする。
 そんな気がするだけで、実際は久しぶりでも何でもないが、アレ(・・)以来、サラとはぎくしゃくすることが多く……というか、わたしが勝手にぎくしゃくしてしまい、こうして話す機会がなかった。

 やっぱり、サラと他愛のない会話を交わすのは楽しい。
 一緒に歩いて、同じ景色を見て。
 そしてまた明日ね、と言ってバイバイする。
 今まで当たり前だと思っていたサラとの日々は、実はとても恵まれていて、幸せだったのだ。
 それに気付けたのだから、ある意味、あの一件はわたしにとって良かったのかもしれない。
 今も後悔だらけなのは間違いないが。

「他に褒めてくれそうなとこないかな……」

「図々しい」

「あ、分かった。優しい、とか」

「自分で言うなよ」

「もう、思ってる癖に〜」

 サラの腕をつんつん、と突くと、サラは笑いながらそれを振り払った。
 楽しい。もっとふざけてサラと笑い合いたい。
 サラが言わなさそうなことって他に何かあるだろうか。
 わたしについて、絶対に言わなそうな、何か。
 巡ってきたチャンスを逃したくなくて頭を捻る。 
 
「可愛いとか!」

「は?」

 ふい、とサラが顔を背ける。
 しまった。会話を盛り上げたくてつい調子に乗ってしまった。

「いや、サラがそんなの言わないことくらい分かってるから! だって、絶対思ってないでしょ! ね、ね!」

 必死のフォローも空振りに終わり、その後もサラは視線を落としたまま黙っている。

―――前と同じなようで、同じじゃない。

 サラはわたしとのことは早く忘れてしまいたいのだ。
 可愛い、なんて冗談でも言うべきじゃなかった。
 せっかくいい感じで二人の仲が戻っていたのに。
 サラの隣で歩くのが気まずくなり、後ろに下がってとぼとぼとついていく。
 黙ったまま、遠くなった背中を眺めながら、もう二度とサラの嫌がるようなことはしないとかたく心に誓った。







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