君を忘れてしまう前に
朝、大学の門をくぐり、クラシックの校舎にあるサロンの前を通りがかると和馬くんが立っていた。
今まで学内でほとんど会った事がなかったのに、昨日の今日で早速ばったり会うなんて人の縁って分からないものだな、と思いつつ手を振ってみる。
すると、和馬くんはすぐにこちらに気付き、ワイヤレスイヤホンを片方だけ外して会釈した。
「おは、」
「古河君、おはよー」
「おはよ」
私の声に被るようにして、背後から何人かの女の子達が和馬君に声をかける。
もしかして、和馬くんは私じゃなくて後ろの子達に会釈したのだろうか。
昨日、ちょっとしたやり取りを交わして知り合い気分になっていただけにかなり恥ずかしい。
何事もなかったふりをして、和馬くんの前を通り過ぎようとした時だった。
「仁花さん、おはようございます」
「あ、どうも、おはよう!」
今、気付いたよという設定で和馬くんに挨拶を返す。
「どうもって……さっきこっち見てませんでした?」
「え、あ……、うん、そうだけど……和馬くん、私に気付いてなさそうだったし」
「挨拶したじゃないですか、さっき」
「後ろの子達にしたのかなって思って」
「違いますよ、仁花さんにしました」
和馬くんが小さく笑うと、センターパートの前髪が少しだけ揺れる。
笑われてしまった。全部、見られていたのか。
自分の行動が恥ずかしくなった私は、わしゃわしゃと耳の辺りを引っ掻いた。
「和馬君こそ、どうしたの? ここで誰かと待ち合わせ?」
「いや、待ち合わせ……とかじゃないんですけど」
きまりが悪そうに俯く和馬君を見て、香音さんのことを待っているのだと察した。
昨日、わざわざ練習室まで訪ねて来ていたくらいだし、何か伝えたいことでもあるのだろう。
「そうなんだ。じゃあ、またね」
「あ、ちょっと待ってください、僕も行きます」
「誰か待ってたんじゃないの?」
「待ってました、さっきまで」
「そう、もういいの?」
「いいです」
和馬くんが私の隣に並ぶ。
よく分からないが、本人が良いと言っているのだからもういいのだろう。
それ以上は気にせず、私は和馬くんと歩き出した。
「おはよう、古河くん」
「おはよ」
たくさんの女の子達が、和馬くんに声をかけて行く。
ただの挨拶ではなく、親しみの中に明らかな好意が混じっていて、隣で聞いていると甘酸っぱい気持ちになった。
和馬くんは、見た目が王子様っぽくて近寄り難いサラとは違い、やんちゃな少年のような雰囲気を醸し出していて親しみやすい。
恥ずかしがる女の子達に対し、余裕のある態度を取るところからも、恋愛経験が豊富そうなのは見て取れる。
「和馬くんってモテそうだねえ……」
「え、僕? 全然ですよ。サラさんが凄すぎるというか。いつも一緒にいるから余計にそう思います。さっきもここに着くなり後輩の子に呼び出されてましたし。あれ告白だと思うんですけど」
「そうなんだ」
どんな子? 先輩? 後輩? 可愛い?
サラはどんな感じだった?
色々と和馬くんに聞きたい気持ちを、ぐっと堪える。
これだけ質問をくらわせてしまったら、私がサラを好きだということが即刻バレてしまう。
落ち着け。サラは香音さんのことが好きなのだ。
ここでその告白を受け入れることは100%ない。
いや、気まぐれを起こしたりしない限り99%……80%……な、70%……?
万が一、予想外のことが起きたりしたら……。
ここは大量にある質問を厳選して和馬君に投げかけてみようか。
いや、でも……。
「仁花さんって、サラさんのこと好きなんですか」
「え」
とくり、と大きく鼓動が跳ねる。
すぐに和馬くんの方を見ると、それに答えるようにして彼は悪戯に口角を上げた。
完全にバレている。
「ダメ、言わないで、秘密にしてて! お願い!」
和馬くんの両腕をぎゅっと掴み、その手に力を込める。
ずっとひた隠しにしてきた、分不相応な片想い。
心の中で留めておこうと決めたのに、もしもこれが本人の耳に入ってしまったら。
―――友達ですらいられなくなってしまう!
「分かりました、秘密で」
和馬くんの言葉に安堵した私は、ありがとう、と言葉を返した。
予鈴が鳴る。
ベルの音に導かれるまま和馬くんに別れを告げ、不安を拭えない胸の鼓動を落ち着かせつつ、私はポピュラーの校舎へと向かった。