君を忘れてしまう前に



 今日はコンサートの中間発表の日だ。
 実際にステージに立ち、出演者や先生方の前で演奏する。
 その場にいる関係者全員にどれだけ仕上がっているのか厳しい目で見られるため、朝、家を出た時から緊張していた。

 サラとはあの日から2週間近く、まともに喋っていない。
 3年生になるとクラシックの学生と同じ授業を受けることはほぼないし、そもそも校舎が分かれているので、お互いに会おうとしなければ全く会わずにすむ。

 そんな事に今更、気が付いた。
 それだけ私達は毎日、当たり前のように顔を合わせていたのだ。
 二人でよく喋っていた、ソファのある休憩所にも行っていない。
 また急に怒りをぶつけられて傷付くようなことがあったら、と思うとサラに会うのが怖かった。

 中間発表が行われる、指定のコンサートホールへと足を運ぶ。
 学内にいくつかあるコンサートホールの中で、一番小さなホールだ。
 とはいえ、ちゃんとしたステージで演奏するのはこれが初めてになる。
 まだ何もしていないのに、私の手には緊張から大量の汗が滲んでいた。

 ホールの扉を開けると、10人程の先生方が客席で横並びに座っていた。
 その周りには出演者が間隔を空けてちらほらと座っており、ステージ上を眺めている。
 ステージには数人立っており、今にも演奏が始まりそうだ。
 私は急いで、入り口近くの席に着いた。

 出演者達の演奏が始まる。
 1000人近くいる生徒達の中から選ばれた30人程の出演者達は、段違いに演奏が上手い。
 ほとんどがクラシックの生徒で、ポピュラーの生徒は私だけだ。
 自分が出演者であることも忘れて、ステージに見入ってしまう。
 私はなんて素晴らしい場に居合わせることが出来たのだろう、そう思う反面、私がここにいても良いのだろうかという気持ちにもなる。
 しばらく忘れていた緊張が再び生まれ、じっとしていられなくなった私は、誰もいない前列のイスの背に抱き着き顔を埋めた。
 バクバクと大きく胸が脈打つ度に、身体が揺れる。
 今はまだ本番じゃない。
 ただの練習だ。
 失敗しても大丈夫。

『好きなように演奏してみろよ。好きにやって、失敗したらその都度、直せば良いし』

 以前、サラもそう言ってくれた。
 だから大丈夫。大丈夫。
 そう自分に言い聞かせていた時、客席から初めての拍手が沸き起こった。

 何事かと顔を上げると、サラと香音さんがステージに上がっていた。
 客席の拍手は、二人の演奏への期待から生まれたものだったらしい。
 私ならプレッシャーに押し潰されそうになるだろう。
 でもサラは客席の期待などものともせず、落ち着き払った様子でヴァイオリンを構えた。
 ピアノの前に座った香音さんと目を合わせる。
 二人の演奏が始まった。

 ヴァイオリンの瑞々しい旋律と、その旋律を穏やかに照らす、春の陽だまりのようなピアノの伴奏が、会場の空気をふわり、と軽くする。
 この間の公開練習の時とは比べものにならないほど、二人の演奏レベルが上がっている。
 それに―――

「ねえ、あの二人、息がぴったりだよね」

「ほんとにそう。こんなの、学生の域、超えてるじゃん」

 すぐそばから、小さな話し声が聞こえてくる。
 その通りだ。
 ヴァイオリンの旋律が無邪気に遊ぶ子ども子どものように伸び伸びとしていて、それを微笑ましく見守るピアノの優しい響き。
 会話のようなやり取りを終えれば、再び二つの楽器がぴったりと寄り添い、それぞれの音色を奏でる。
 何もかも完璧だった。

「ほんとお似合い、付き合ってるのかな、あの二人」

「絶対そうでしょ。でないとあんな演奏出来ないよ」

「いいなあ、北岡くんと付き合えるなんて夢のまた夢だよ」

「そうだよね。やっぱり相手は香音さんくらい完璧な人じゃないと。北岡くんって全然女の子になびかないイメージだけど、香音さんは特別って感じがするよね」

「そもそも普通の子は気軽にアプローチなんか出来ないよね。北岡くんの周りで騒いだり告白する子は、よっぽど身の程知らずだなと思っちゃうよ」

 その身の程知らずは私だ。
 今までの私の行動を思い返すと死ぬ程、恥ずかしい。
 2週間前のサロンでの出来事なんか最低だ。
 何を勘違いしていたのだろう。
 意気揚々とパソコンの前に座っていた私をぶん殴ってやりたい。
 イスの背に回した両手に力を込める。
 客席からステージへ拍手と歓声が送られたのは、その後すぐだった。

 客席は興奮状態だった。
 演奏を終えたサラと香音さんが客席横の通路を通ると、両脇に座った生徒達から話しかけられたり、握手を求められたりしている。
 先生方も二人に直接、何かアドバイスをしているようだった。

 一通り話し終えたのか、ステージ近くの前の方の席に座ったサラ達は、お互いに見つめ合って笑顔で言葉をかわしている。
 前にも増して打ち解けているように見えた。
 だめだ。これ以上、二人の様子を見ていても辛いだけだ。
 視線を逸らそうとした瞬間、サラが後ろを振り返った。

 パチリ、と視線が重なり合う。
 久しぶりだ。
 嬉しくて仕方がなかった。
 思わず、遠い席に座っているのにサラ、と声をかけそうになる。
 黙って笑顔を向けるも、サラは無表情のままにこりともせず、すぐに前を向いて座り直した。

 無視されてしまった。
 どん、と背中が重くなる。
 サラの座る席が、とてつもなく遠い場所にあるように思えた。

 私が欲張ったせいで、サラは遠い所に行ってしまった。
 いや、サラは元々遠い所にいる人だった。
 今まで私と仲良くしてくれていたこと自体が奇跡だったのだ。
 それなのに、欲張って友人以上の関係を求めてしまった。
 サラの隣にいられるだけで幸せだったのに。

―――サラのことを好きにならなければ良かった。
 そうすれば今だって、演奏良かったよ、なんて気軽に話しかけられていたのに。
 こんな気持ちにならずにすんだのに。

 気が付けば、私の出番が回って来ていた。
 気もそぞろにステージに立つ。
 真っ暗な客席を見下ろすも、ステージの上が明る過ぎて何も見えない。
 きっとどこかにサラが座っているのだろうけど、私の演奏なんて聴いてもいないに違いない。
 客席には先生方や出演者がいるにも関わらず、私はサラのことしか考えられなかった。





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