君を忘れてしまう前に





 学内コンサートの中間発表が終了し、昼休憩を告げるベルが鳴る。
 私は誰よりも早くコンサートホールを出ると、ポピュラーの校舎へは戻らず、その足で中庭へと向かった。
 きっとポピュラーの校舎に戻れば、皆から「中間発表はどうだった?」と聞かれるだろう。
 でも今は一切、その事を口にしたくなかった。

 私の中間発表の評価は最低だった。
 最低過ぎて、先生にこんな生徒が何で選抜試験に受かったの? とまで言われる始末だった。

 演奏中、まったく集中出来なかったのと、ここのところ、サラのことばかり考えていてまったく練習に身が入っていなかったのが原因なのは明白だ。
 情けない。
 どうしてあんな演奏をしてしまったのだろう。
 客席から漂う冷たい空気を思い出すと、ぼーっとしながらステージに立った自分が恥ずかしくてたまらなかった。
 あの中にサラも香音さんもいたのだ。
 あぁ。穴があったら今すぐにでも入りたい。

 中庭に着くなり腰を下ろすと、バッグの中からおにぎりの入ったケースを取り出した。
 集中するとあまりお腹が空かないだろうから、とお母さんが朝から用意してくれたものだ。
 普段はどうってことのないお母さんの優しさが、こんな時に身に沁みる。
 こうして応援してくれる人がいるのに、大事な中間発表の場で何をやっているのだろう。
 おにぎりを一口、頬張るとじわりと視界が滲んだ。

「あれ、仁花さん。今日はこっちで食べてるんですか」

「か、和馬くん」

 和馬くんが紙パックに入ったオレンジジュースを片手に、地べたに座った私を見下ろしている。

 俯いて、手でさっと涙を拭く。
 まだ肌寒いこの時期に、外でお昼を食べる人なんかいないだろうと踏んで中庭まで来たのに、まさか和馬くんと出会うとは。
 泣いている顔を見られなかっただろうかとドギマギしながら、私はそれを誤魔化すように一口おにぎりを頬張った。

「誰? 知り合い?」

 和馬くんの隣にいた女の子が、あからさまにこちらを睨んでいる。
 堂々と敵意を向けられ、少し気まずい。

「うん。ちょっと先に行ってて」

「やだ、和馬と一緒がいい」

「後で行くから」

「やだ、一緒に行こ」

「後で行くって」

「やだ!」

「俺、面倒くさいの嫌いって言わなかった?」

 えっ、と思わず耳を疑った。
 今のは本当に和馬くんの口から出た言葉なのだろうか、と確認するように二人に視線を向ける。
 女の子も私と同じように、えっ、と驚いた表情を浮かべていた。

「ご、ごめん。分かってるよ……。じゃあ、また後でね」

 女の子が背を向けてトボトボと歩き出す。
 その背中があまりにもがっくりとしていて可哀想だった。

「ちょっと、あんなこと言って良いの? 今のは酷いんじゃない?」

「確かに酷いですね、僕。隣、座って良いですか?」

「え、」

 私に有無を言わさず、和馬くんは隣に腰を下ろした。
 今は一人でいたかったが、座ってしまったあとに拒否もできない。
 少し距離を空けて座り直すと、和馬くんは両膝を立て、ジュースのストローを口に咥えてくつろぎ始めた。
 不思議だ。
 かなり横柄とも言えるその態度に、まったく嫌な感じがしない。
 和馬くんの醸し出す親しみやすい雰囲気のせいだろうか。

「久しぶりですね、会うの」

「そうだね、校舎が分かれてるから全然会わないよね」

「朝も来てなくないですか?」

 私はうん、と小さく返事をした。
 ここ2週間は、サラのことで頭がいっぱいになり寝不足気味だった。
 ベッドに入ってからもつい考えて寝るのが遅くなってしまい、授業のない空き時間を使って練習することが少なくなっていた。
 だからこそ、今日の中間発表は散々な結果に終わった訳で。

「最近、大学に来るのちょっと遅くてさ」

「だからか」

「だからかって……? そういえば、和馬くんて何で私が朝来てないの知ってるの? 今までほとんど会ったことないよね?」

 和馬くんは黙ったまま、紙パックをぎゅっと握りオレンジジュースを飲み干した。

「ライン、教えてください」

「いいけど。どうしたの? 急に」

 言われるがまま連絡先を交換する。
 和馬くんは慣れた手付きでそれを終えると、ジーンズのバックポケットに携帯電話をしまった。

「何かあればいつでも話聞くんで連絡ください。この間のこととか」

 サラのことだ。
 和馬くんは勘が鋭いのか、それとも何かを知っているのか、その辺りははっきりとしないが、私を心配してくれているようだった。

 思えば、和馬くんだって香音さんが好きなはずだ。
 その香音さんがサラと上手く行っている今、和馬くんも色々と思うところがあるのではないだろうか。

「ありがとう。和馬くんも何かあれば連絡ちょうだいね。私も話くらいだったらいつでも聞けるし」

「何もなくても連絡して良いですか?」

「? 別に良いけど何もないのに何の連絡するの?」

「んー。じゃあ、はっきり言いますけど、泣きたくなったらいつでも僕に言ってください」

「……え?」

「このまま仁花さんのこと放っとけないんで」

 和馬くんは、私がここで隠れて泣いていたことに気付いていたらしい。
 予想外の言葉をかけられ狼狽えるも、和馬君の真剣な表情を見て本気で私のことを思って言ってくれているのだと分かった。
 これだけ精神状態がボロボロな時に、優しい言葉をかけられたら頼りたくなってしまう。

「ごめん、心配してくれてありがとう。でも私、平気だから」

「我慢しないでください、誰かの前で泣いても良いんですよ。僕が受け止めるんで。作り笑いもいらないです。そのままでいてください」

 和馬くんの言葉に涙腺を刺激される。
 何とか保っていた自制心に、ピシリとヒビが入る。
 途端に、大粒の涙が零れた。
 自分の単純な性格を今ほど憎らしいと思ったことはない。

「ごめん、私。こんなに簡単に泣いちゃうなんて」

「嬉しいって言ったら怒りますか?」

 和馬くんの言葉を遮るように予鈴が鳴った。
 この後、ポピュラーの校舎で作曲の講義がある。
 校舎はここから離れているので、すぐにでも向かわなければ授業に間に合わない。

「ごめん、和馬くん、もう行かなきゃ」

「分かりました、じゃあ、また」

 和馬くんを置いて、振り向きもせず駆け足でポピュラーの校舎へ向かう。
 危なかった。これ以上、一緒にいたら自分が駄目になるところだった。
 和馬くんはああ言ってくれたが、ここで誰かに頼れば、何の成長もなく目の前の出来事が過ぎ去ってしまうだろう。
 それは絶対に嫌だ。
 和馬くんの前で泣いてしまった弱い心を振り払うようにして私は勢い良く地面を蹴った。





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