君を忘れてしまう前に
『我慢しないでください、誰かの前で泣いても良いんですよ。僕が受け止めるんで。作り笑いもいらないです。そのままでいてください』
壊れたボイスレコーダーのように、和馬くんの言葉が頭の中で何度も繰り返し鳴り響く。
おかげで今日の作曲の講義は何をしたのか全く覚えていない。
すべての授業が終わって練習室に入った今もそれは変わらなかった。
室内に常備されているパイプイスにゆっくりと腰を下ろす。
和馬くんの前では好きに泣いて、弱音まで吐いても良いらしい……が、誰かに依存するような優しさは受け入れるべきじゃない。
和馬くんは優しすぎる。
百歩譲って好きな人に言うならまだしも……と考えたところで、私はぶんぶん、と勢い良く首を横に振った。
まず私が誰かに好意を向けられること自体、絶対にあり得ない。
しかもキッラキラのヴァイオリン専攻のアイドルみたいな人が、まさか。
『お前のこと好きになるやつなんかいねーよ』
サラにもそう言われたのだ。
私だって常々、そう思っている。
だからこそ、この言葉がとてもショックだった。
コンサートホールで、サラと視線が合った時のことをふと思い出す。
それにしても、冷たい目だった。
すぐに逸らされはしたが、ある意味、私はそれに助けられたのかもしれない。
もしもあの時、あの目にしばらく射抜かれていたとしたら、今頃私の心は死んでいただろうから。
サラには完全に嫌われてしまったのだ。
だめだ、練習に身が入らない。
とりあえず、気分転換にサロンで飲み物でも買って来ようか。
私はパイプイスから立ち上がり、重い身体を引き摺るようにして練習室を出た。
練習室のドアを閉めると、目の前を可愛らしい女の子が通り過ぎて行く。
クラシックの校舎でよく見かける服装だった。
はっとする程目鼻立ちが整っていたので、何となく、その子を目で追ってしまう。
女の子は廊下の一番奥にある練習室の前に立つと、コンコン、とドアをノックした。
ガチャ、とドアが開く。
中から出て来たのはサラだった。
まさか。ポピュラーの校舎だけでも練習室は数え切れない程あるというのに、これだけ近い部屋でサラが練習していたなんて思いもしなかった。
「あ、あの、すみません」
「何?」
「わ、わた、私、サラさんにずっと憧れてて……、もし良かったら……」
「こういうの迷惑だからやめて。今、練習中だから」
サラの目つきも口調も、これ以上なく冷たかった。
でもそんな態度を取りたくなる気持ちも分からなくはない。
練習中に練習室を訪ねるのは、よっぽどの理由がない限り迷惑にしかならないからだ。
本来なら女の子はサラの練習が終わるのを待ってから告白するべきだった。
だからサラが怒るのも無理はない……が、態度がきつ過ぎる。
もう少し言い方があるだろうに。
案の定、女の子は泣きながら廊下を走って行った。
可哀想に。自分の姿と重なり胸が痛む。
もしもあの女の子が私だったら、もっときついことを言われていただろう。
そして今度は今以上にショックを受けるのだろう。
そうなれば、心がずっと奥深くまで沈んでもう二度と浮き上がって来れないかもしれない。
少し想像しただけで恐ろしかった。
サラがこちらに気付いてないうちに、すぐにでもこの場を去ろう。
練習室のカギをかけて顔を上げた時だった。
「あ」
練習室のドアを開けたままだったサラとばっちり目が合う。
しかも声にまで出してしまった。
これだと、こちらからサラに声をかけたように思われてしまう。
どうすれば、と考えるもいい案が一向に思い浮かばない。
そわそわしていると、サラの視線がどんどん冷たくなっていくのを肌で感じた。
「あの、」
「何か用?」
あの女の子の時とまったく同じ流れだ。
まずい。
「あ……いや、別に、あの……元気? なんつって……はは」
空笑いの声音が虚しく廊下に響く。
笑っているのは私だけで、サラはピクリとも唇を動かさない。
これだったら黙ってドアを閉められた方が数百倍マシだ。
たまらなく苦しい。ここから一刻も早く逃げたい。
「そ、それじゃあ……あの、また、」
「入れよ」
「へ」
「何か今から用事あんの?」
「いや、無いけど……」
「じゃあ、入れよ」
サラが練習室のドアを大きく開く。
何を言われるのだろう。
あんな演奏をした後だ。サラにぼろくそにこき下ろされるかもしれない。
でも、それでもまだ私に何かを伝えようとしてくれている。
そう考えると居心地の悪さが一瞬で吹き飛び、嘘のように胸が軽くなった。
―――私はまだサラに嫌われていなかったかもしれない。友達にまた戻れるかもしれない……!
私は分かった、と小さく返事をし、サラの方へと歩き出した。