君を忘れてしまう前に



 サラは一言も発することなくグランドピアノのイスに腰掛けた。
 その前にあったパイプイスに私も座る。
 久しぶりに近くで見たその横顔は、芸術的なラインを描き、気品に溢れていて絵本から飛び出してきた王子様のようだ。

 サラ、だ。
 目の前にいるのは間違いなくサラだ。
 嫌われたと思っていたが、こうして練習室に呼ばれたとなるとそれは私の勘違いだった―――のかもしれない。
 またこれから何事もなく友人として仲良くやっていけるのかもしれない――そんな私の密かな期待をよそに、室内の空気は酷く重苦しかった。

 かなり気まずい。
 こくり、と喉を通る唾液の音がやたらと大きく、サラに聞こえてはいないだろうかと気を使うくらい室内は静まり返っていた。
 やっぱり、勘違いだったと思っていたこと自体が勘違いだったのだろうか。
 何も喋らず、ニコリともしないサラの態度は、明らかに親しい友人を前にしたものではない。
 何かに苛立っているような、不満そうな表情を浮かべ、苦手な人物をどうして避けようか、といった嫌悪にも似た想いを抱いているようにしか見えなかった。
 いや、これも私の勘違いなのかもしれない。 
 どうか勘違いであって欲しい。

 そんな願いを込めて見つめていると、サラがこちらに向き直る。
 視線がぶつかり合い、ドキリと心臓が跳ねた。

「最近、どうしてんの」

「え、あ、私!? ま、まあまあ、かな。まあまあ!」

「へぇ」

 サラは、つまらなさそうに左手の人差し指と中指の爪の先を見ている。
 私の日常なんて興味がなく、挨拶代わりの質問だったのだろう。

「サラは最近どう? 調子いい?」

「いいわけねーだろ」

 予想外の返事だ。
 今日の学内コンサートの中間発表でステージに上がったサラからは、微塵もそう感じられなかった。
 むしろ、いつもよりもキラキラしていて、演奏もレベルアップして凄かった。
 あのサラが調子が悪い?

「何かあったの?」

「別に」

 素っ気ない返事が返って来る。

「あ、あの、ごめん、ね。また私で良かったらいつでも話聞くし。別に話したくなかったら全然いいんだけど……」

「言ってどうなんの。慰めてくれんの?」

「そ、そんなの、も、もちろん! いくらでも!」

「ふぅん。それ、どういうつもりで言ってんだよ」

「どういうつもりって……だって私達……友達……だよ、ね?」

 以前なら当たり前過ぎてわざわざ口にはしなかったことを、サラの態度を見ながら恐る恐る確認する。
 その変化を悲しく思うも、現実を受け止めざる終えなかった。

「友達?」

サラが顔をしかめる。

「そう、だよ。私はそう思ってる……よ」

 サラは違うの? とは聞けなかった。
 嫌悪感をむき出しにしたサラの前で、それを聞けば私達の仲は終わってしまう気がしたからだ。
 やっぱり勘違いじゃなかったらしい。
 恐れていた現実と無理やり向き合わさせられて吐き気がする。
 それでも、サラの口からその言葉を直接聞きたくなかった。

 もしも聞いてしまったら、私は明日からどうなるのだろうか。
 大学に来てもサラとはもう会えない。
 会っても喋られない。
 目を合わすことだって。
 隣で歩くなんてもってのほかだ。
 あの幸せな時間をもう二度と手にすることが出来なくなる。
 そんなの。
 そんなのは、嫌だ。

「私ね、サラと一緒にいたら凄く落ち着くんだよ。それは、いつもサラが私の話を聞いてくれるからなんだけど。自分でも情けなくなるような話もサラがちゃんと聞いてくれてたから、だから、心が安らぐっていうか」

「俺はお前といて心が安らいだことなんか一回もねーよ。最初から今までずっと」

「え……」

 最初……から?

「最初から俺はお前と同じ気持ちじゃない。それに、これからもお前と同じ気持ちにはなれない」

「私と同じ気持ちじゃない……?」

「うん、ごめん」

 サッと血の気が引いていく。
 最初から、違うかったらしい。
 私達は最初から、

「友達……じゃなかったの?」

 言いたくなかった言葉がつるり、と出る。
 サラは無言のまま、視線を落とした。
 が、瞬く間にその暗い顔をしたサラが霞んで見えなくなる。
 目頭が熱い。ここで泣いたら駄目なのに、次の瞬間には涙が次々と溢れて止まらなかった。

「違うかったの……?」

 ついこの間、サラと一緒に帰った日のことが脳裏に浮かぶ。
 久しぶりに二人で並んで歩いた、大学の帰り道。
 そこには嗅ぎなれた夜の匂いと、頭上には小さな星が控えめに浮かぶ都会の夜空があった。
 普段通りの風景。
 でもそれこそが私の幸せそのものだった。

「サラと……一緒に並んで歩くのが好きなの……。そこから見える景色っていつもよりも綺麗に見えるんだよ……」

「俺は他の景色なんか見てねーよ、お前といる時は」

 脳裏に浮かんだあの日の画に、ピシリとヒビが入る。
 サラにも同じように思っていて欲しかった訳じゃない。
 ただ、私の大切な瞬間を咎められたようで悲しかった。

「……でも私は好きなの」

「そういうのやめろよ、勘違いするから」

「勘違い? 勘違いなんかじゃないよ、ほんとだよ。サラとずっと仲良くしたいの」

「お前、なんも分かってねーな」

 サラが溜め息をつく。

「何を分かってないの? 分かんないよ、ちゃんと言ってくれないと」

「言ったら俺の思う通りになんの」

「分かんない。けど、そうなるように努力するから」

「いらねーよ、そんなの」

「じゃあ、どうしたら良いの……?」

 少しの間止まっていた涙がまたポロリ、と零れる。

「さっきから何なんだよ、お前。男の部屋にのこのこ入って来てそんな顔して」

「だってサラに誘われて来たのに、そんな言い方……」

「誘われたら誰の練習室でも入んの、お前」

 誰でも、ということは決してない。
 みつきの練習に付き合う時は今と同じように一緒に練習室に入る。
 この間は涼にも誘われた。

「みつきと涼に誘われた時は、今と同じ感じで……」

「はあ? 涼?」

 みつきもだよ、と付け足せない空気が流れる。
 涼の何がだめなのだろうか。

「お前、無防備すぎ。こんなん何されても文句言えねーよ」

「何されてもって……?」

「お前と喋ってたらマジでむかつくわ」

 ダイレクトに怒りを向けられ、私はひゅっと息を呑んだ。



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