君を忘れてしまう前に
大好き
『今日はポピュラーの校舎のレッスン室がメンテナンスで使えないので、クラシックの校舎でレッスンを行います。少しお話がしたいので早めに来てね』
お昼過ぎ。
リカコ先生からのラインで、私はがっくりと肩を落とした。
昨日、サラにあんなことを言われたばかりだ。
今日はクラシックの校舎を見ただけでもサラを思い出してしまい、心がかき乱されるのに、そんな場所でレッスンをしなければいけないなんて最悪だ。
万が一、サラと鉢合わせでもしてしまったらどうしよう。
私も今はできるだけサラと顔を合わせたくない。
レッスンの場所が変わる、というちょっとした出来事が、ただでさえボロボロなメンタルにさらに追い討ちをかけた。
そして私の不安は、あっさりと現実のものとなる。
リカコ先生から指定されたレッスン室へ向かう途中、練習室に入るサラと香音さんを見かけてしまったのだ。
二人とも私に背を向けたままだったのが、不幸中の幸いだった。
横顔のサラは笑っていた。
もう二度と、私の前でああやって笑ってはくれないだろう。
そして今となっては貴重になったそのサラの笑顔に、当たり前のように隣に並ぶ香音さんが笑みを返す。
それがたまらなく羨ましかった。
私は、仲睦まじく練習室に消える二人をただ黙って後ろから見送った。
このたった21年間の短い人生の中で分かったことは、どうやらこの世には努力しても報われないものが2つあるらしい、ということだった。
1つめは才能。
どれだけ努力を重ねても、才能のある人には敵わない。
2つめは恋愛。
人の心の好き嫌いは、自分の努力だけでは変えられないのだ。
恐らく、香音さんはこんなことで悩んだ経験なんかない。
何しろ、完璧な人だ。
音楽も恋愛も努力すればする程、成果が出て何事も難なくこなしているのだろう。
こんなポンコツな私とは違って。
私も香音さんのようになりたかった。
レッスン室の扉を開けると、真正面に座ったリカコ先生と目が合った。
先生は厳しくも穏やかな表情を浮かべている。
昨日の学内コンサートの中間発表が終わってから、リカコ先生と顔を合わせたのはこれが初めてだ。
あんな演奏をした後だ。
今日はこれ以上になくこっぴどく叱られるだろうな、と内心ビクつきながら、私はリカコ先生の前に座った。
「はっきり言うわね。今のままだと米村さんのコンサートの出演は取り消しだって」
頭を殴られたような衝撃だった。
サラや香音さんのことが一気に吹き飛ぶ。
自分が今、置かれている現実にようやく直面した気がした。
「私、昨日の演奏は見てないんだけどね。先生方は、あれではお話にならないとおっしゃっていて。私は普段のあなたを見ていてそうは思えないんだけど。昨日はどうしてそうなったのか、心当たりは……あるのね」
俯いた私の視界の端で、顔を傾けたリカコ先生がぼんやりと映った。
私は小さく、はい、と返事をした。
思えば当然だ。
ここしばらく恋愛のことばかり考えていて、音楽に全く集中できていなかったし、中間発表の演奏中もうわの空だった。
そんな私のいい加減な心の内を、先生達には全部見透かされていたのだろう。
「今後どうなるのかは私の判断次第になるわ。レッスンも前以上に厳しくなるけど」
「はい……」
でも、今の私にそのレッスンに付いていけるだけのやる気が残っているだろうか。
そもそも私には、学内コンサートに出るだけの実力がなかったということが、今回、浮き彫りになっただけでは。
そう思う私の傍らで、先生は優しく微笑みながら頬杖をついた。
「あなたが今まで、何事も一生懸命だったことは知ってるわ」
「先生……」
「それでも上手く行かずに悩んでいたことも。音楽しか頭になかったことも。最近は……音楽以外のことでも悩んでたのよね」
「そう……です」
「あなたはどうも理想を追いかけ過ぎちゃうところがあるわ。だから、理想とは違う現実の自分を否定しちゃうのよ。あなたの本当の良さはあなたの気付かないところにある。そしてあなたの周りの誰かが見ているわ。それを当てにするのは良くないけれど、実際、そういうものなのよ。他の人の魅力を追いかけるのはもうやめにして。あなた自身と向き合って。今まで頑張ってきた自分をもっと信じてごらん」
自分を、信じて……。
いつかサラが私に言ってくれた言葉だ。
じわり、と涙が滲む。
その後もリカコ先生は時間の許す限り、私に優しく語りかけてくれた。
*
レッスンが終わり、廊下を歩いていると、同じくレッスンを終えたみつきに遭遇した。
最近、みつきとはまともに話せていなかった。
会話の中で色々と深く突っ込まれたくなくて、あえて避けていた部分もある。
申し訳なく思う私を気遣うように、みつきは明るく手を振ってみせた。
「なんか久しぶりだね。ちょっと痩せた? 夜はちゃんと寝て、しっかり食べなきゃ」
みつきはずっと私のことを見てくれていたのだ。
それなのに私は―――
「……ごめんね」
「どうしたの、急に泣き出して」
「なんか、涙腺壊れたのかも、私」
「ばか。一人で色々頑張りすぎなんじゃない? 私にもちょっとは分けなよ、辛い気持ち」
みつきに駆け寄り、肩に抱き着く。
こんなことをお母さん以外の誰かにしたのは初めてだ。
みつきも驚いたようで、ちょっと、と笑いながら、私を抱きしめてくれた。
みつきの手が私の背をとんとん、と撫でる。
その手から、私が話すのをずっと待っててくれたていたみつきの優しさが伝わって来た。
サラとのことを話せなかったのは、みつきに引かれたらどうしようと不安に思っていたからだ。
私は何も分かっていなかった。
どうして私はこの子を疑ってしまったのだろう。
こんなに私を大切に思ってくれていたのに。
今まで私は、皆が向けてくれる優しさを当たり前のように受け取っていた。
こんな私と一緒にいてくれた人達は誰だっただろう。
こんな私を応援してくれていた人達は誰だっただろう。