君を忘れてしまう前に
後輩の男の子


「え、こっちもいっぱいですか?」
「そうですね。今の時間、練習室は満室です」

 わたしは、事務局の白いカウンターの前でガクリと肩を落とした。 
 普段使っている練習室が満室だったから、クラシックの校舎まで来てみたけど、同じく満室状態が続いているらしい。
 練習室が借りられなくてがっかりしているわたしを見た事務のお姉さんが、パソコン画面をもう一度確認してくれたけど、眉尻を下げて首をふるふると横に振った。

 昨日の公開練習がいい刺激になったのか、練習に励む生徒達が増えて、今日はなかなか練習室に入れない。
 出演者としては嬉しいけど、練習ができない状況が続くのは複雑だ。
 今日は練習ができないまま、気がつけば17時を回っていた。

「あれJ−POPじゃない?」
「こっちの校舎に来んなよ」

 後ろからヒソヒソと陰口が聞こえてくる。
 J−POPの生徒はクラシックの生徒に比べてラフな服装だから、どちらの生徒なのか見た目ですぐに分かる。
 膝丈スカートとカーディガン、それにブランドバッグを持つのがデフォのクラシックの校舎で、大きめのグレーのパーカーにジーンズとスニーカー姿のわたしはかなり浮いていた。

「だっさ」
「帰れよ」

 ねちねちと続く言葉にかちんときたわたしは、鼻息を荒げて振り返った。
 ブランドバッグを持った女の子が2人でこちらを睨みつけていたけど、怖くもなんともない。
 言い返してやろうと口を開いた時だった。
 
「練習室、いっぱいだった?」

 女の子達からの鋭い視線を遮るようにわたしの前に立ったその人は、香音さんだった。
 爽やかな甘い香りが、花柄のワンピースと一緒にふわりと漂う。
 わたしよりも少し背が高い香音さんは、わたしと視線を合わせるようにゆっくりと小首を傾げた。

「今日、凄く混んでるよね」
「あ……はい」
「よかったら、わたしの練習室使ってくれないかな? 急用ができて今から帰らないといけなくなって」

 香音さんは、お洒落なトートバッグの中から部屋番号が印字されたキーホルダー付きの鍵を取り出した。

「これ、どうぞ」
< 20 / 89 >

この作品をシェア

pagetop