君を忘れてしまう前に
何もかも忘れて音楽に向き合うのは久しぶりだった。
あの日から、私は寝食も忘れて練習に没頭する日々を送っていた。
今は練習以外のことを考える時間も惜しい。
そんな私を見て、リカコ先生は「足元に火が付くってこのことね」とにこやかに笑いながら、学内コンサートの出演を許可してくれた。
とりあえず危機は免れたものの、あっという間に気が付けばコンサート前日。
練習室の窓の外に広がる空が暗くなったのを見て、急いで帰る支度を始めた。
明日はいよいよ本番だ。
ハードな一日になる。
今日は早めに寝て、明日に備えなければ。
譜面台の上に乱雑に置いていた譜面をトントンと整えカバンにしまい、ギターを背負う。
早々に帰る支度を終え、私は練習室を後にした。
昇降口から中庭を通って正門へは向かわず、校舎の裏側に入る。
こうしてクラシックの校舎と繋がる渡り廊下の脇から裏門へ出ると、ほんの少しだが帰宅時間が短縮できるのだ。
でもこの道はどことなく不気味で人気がなく、いるとすれば人目を避けていちゃつくカップルぐらいだが、今は一刻も早く家に帰りたい。
雰囲気の悪さに耐えつつ、虫の声が間近に聞こえる暗い校舎裏を、雑草を踏み分けながら進んだ。
暗闇に目も慣れて来た頃だった。
前方からカサ、と物音が聞こえ、ドキリと心臓が跳ねる。
雑草と虫以外は何もないと気が緩み始めていただけに、妙な緊張が走った。
物音は目の前の曲がり角を曲がった所から聞こえて来た。
今は渡り廊下の窓の光のおかげで明るい場所にいるものの、曲がり角の向こう側は再び真っ暗闇になっている。
そこを通らなければ裏門へは行けない。
勘弁してよ、と思わず溜め息が漏れ出るのを抑え、私は恐る恐る物音のする方を覗き込んだ。
暗闇の奥で向かい合う男女がいる。
それが誰だかすぐに分かった。
サラと香音さんだ。
香音さんは泣いているようだった。
「ごめんね、いつも……私のこと嫌いになった?」
「いいえ」
二人の会話を聞いた途端、この道を選んでしまったことを激しく後悔した。
ここ最近は練習詰めだったおかげで、サラの姿を見ずにすんでいた。
サラのこともできるだけ考えないよう心掛けていたのに、よりにもよってコンサート前日に二人が一緒にいる場面に出くわしてしまうなんて、神様はとんだ意地悪である。
そして私もすぐにここから立ち去ればいいのに、二人の会話が気になってその場を動けずにいた。
「ほんとに? 信じていいの?」
「嫌いになんかなってませんから」
子どもみたいに泣きじゃくる香音さんに、サラは優しく声をかけている。
その声に答えるように香音さんは顔を上げた。
「いつも何でそんなに優しいの……私、勘違いしちゃうよ」
そのままサラの肩にこつり、と頭を寄せる。
「ごめん……ほんとはコンサート前日にこんなの言うべきじゃないけど……私、サラくんのことが好きなの」
ああ、ついにこの日が来てしまった。
身体がカタカタと震え出し、自分の両腕をぎゅっと抱く。
香音さんが甘えるようにサラにもたれかかる様子は、とても自然だった。
以前からそういうことがあったのだろうかと思わせるほど、ごく自然にサラの肩に頭を寄せている。
サラはそんな香音さんを抱きしめることも遠ざけることもせず、ただ見下ろしていた。
表情は暗くて見えない。
「香音さん、」
サラが口を開く。
これ以上、聞いてしまったら駄目だ。
私はもと来た道を走って引き返した。
靴が雑草を踏む度にガサガサとうるさい音を立てたが、今はどうでもいい。
とにかくこの場から早く逃げ出したかった。
あの二人がいずれ付き合うだろうことは分かっていた。
分かってはいたが、まさかそれが目の前で現実になるとは。
心臓が見えない糸でぐるぐる巻きにされたようで、これ以上になく痛い。
唇も、喉の奥も、肩も、足も。
サラとの思い出も全てがギリギリと締め付けられて痛かった。
がむしゃらになって走る私の頭上では、小さな星が静かな輝きを放っている。
最後に二人で一緒に歩いたあの日の空と同じだった。
―――同じなのに。
ピタリ、と足を止める。
はあはあ、と息が上がり、肩が上下する。
馬鹿みたいだ。
こんなに動揺して、私は馬鹿みたいだ。
ここで泣いたってどうしようもないのに。
夜空を見上げると、目尻から熱い涙が零れ小さな星がぼんやりと滲んだ。
サラはあの後、香音さんを抱きしめたのだろう。
そしてあの優しい熱を持った大きな手で、香音さんの心も一緒に丸ごと包み込んでしまったのだろう。
ついこの間、サラに掴まれた手首をぎゅっと握る。
あの熱は今日から香音さんのものになった。
いや、元から香音さんのものだったのだ。
少し冷たく見える瞳も、穏やかな声も、ちょっと意地悪な笑顔も。
私が好きだったサラは、全部、香音さんのものだったのだ。
これ以上になく、息が苦しい。
このむせ返るような悲しみをどう乗り越えたら良いのだろうか。
大切にしていた恋が本当に終わりを迎えた瞬間だった。