君を忘れてしまう前に
 

 顔を洗って気を取りなおし、ダイニングテーブルのイスに腰掛ける。
 一人暮らしをしているサラの家はとても広く、家具も1つ1つがお洒落で可愛い。
 サラは資産家の生まれらしく、このマンションは学生が1人で住むには豪華すぎる――と庶民的な感覚では思うけど、サラにすれば当たり前なんだろう。
 重厚感のあるダークブラウンのカーテンレールカバー、複雑なカットが施されたアーティスティックなシャンデリア、金色の華奢な額縁に入った有名そうな画家の絵。
 どれも自分の家にはないけど、居心地のよさを感じるものに囲まれているはずなのに、悲しいかな今日は超絶気分が悪い。

 目の前のマグカップに入ったコーヒーを見つめながら、どうしてこうなった、とひたすら自問自答を繰り返す。
 向かい側に座ったサラも一言も喋らないということは、きっとわたしと同じ気持ちなんだと思う。
 お互いになにも覚えていないから仕方がない。
 なにから話せばいいのか分からないし、なにを聞けばいいのかも分からないまま、深く俯いて溜め息をつく。
 その時、胸元に赤い痕が3つも付いていることに気がついた。

「ちょ、ちょっと待って。なにこれ……キスマーク!? こんなの恥ずかしいんだけど! 家でお母さんに見られたらどうしよう!」
「それ、おれの首を見てから言ってみろよ」

 ゆったりめの黒のカットソーから覗くサラの首には、キスマークがいくつも付いている。
 これを付けたのは他でもない――わたしだ。

「うわぁ、首にキスマーク付けて大学に行くなんて、あいつ痛いヤツだなって白い目で見られに行くようなもんじゃん……まじ最悪だよ」
「おれがな」

 サラは、陽の光がたくさん入る大きな掃き出し窓の外に視線を投げると、気だるそうに頬杖をついた。
 女の子からの告白を断る時と同じ表情だ。
 
「あぁ、ごめん。見えるとこに付けちゃったのは申しわけなかったと思うよ。全然覚えてないけどさ、こんなの付けちゃうくらいわたし達、も……」

 盛り上がってたんだね、と言いかけて口をつぐむ。
 お互いに顔を見合わせて、「ちょっと黙ろうか」と無言の会話を交わすと再びわたし達は俯いた。
 耳の奥で、仏壇のアレがチーンと鳴る。
 どうして、どうして。
 どうしてこうなった。

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