君を忘れてしまう前に


 
 午後から、学内コンサートの公開練習が始まった。
 各々の教室で行われる出演者のレッスン風景を、学内の生徒達が自由に見学出来るのだ。

 注目度の高い出演者の教室には、わんさか人が集まる。
 サラと香音さんがいる教室の前まで来てみると予想通り、中は学内の生徒や先生方で人が溢れ返っていた。
 二人の演奏が始まるのを今か今かと待ち侘びる空気が伝わってくる。

 この後、行われるわたしの公開練習には誰も来ないというのは分かっていても、満杯の華やかな教室を目の当たりにして何も思わずにいるのには無理があった。

 名実ともに学内で一番の成績を収める二人だ。
 平凡なわたしがこんな風に思うのは、はなはだ、おこがましい。
 でも、どうしても朝の二人が脳裏にちらついて、ごく当たり前の光景を素直に受け入れられない自分がいるのだ。
 この場にいる全員が、二人の仲を後押ししているように感じて。

 わあ、と教室内からざわめきが漏れる。
 その後すぐに、ヴァイオリンとピアノの音が聴こえて来ると、わたしは急いで人混みの間を縫うようにして中に入った。
 サラが見たい。
 その一心で、ぎゅうぎゅうと身体を押されながらも、人と人の隙間から僅かに見える二人の様子に視線を注いだ。

 グランドピアノの周りに半円を描くようにして人だかりが出来ており、その中心にサラは立っていた。
 正面を向きながら時々、譜面に記された音符を追うその瞳には熱がこめられていて、唇もきゅっと引き結ばれている。
 ヴァイオリンを手にしたサラは気品に溢れ、まるでおとぎ話に出て来る王子様のようだった。
 それでいて、難解で美しい旋律を軽々と躍動的に弾きこなし、オーディエンスをぐいぐいと引っ張っていく力強さがある。
 品のある見た目とダイナミックさが際立つ演奏のギャップにときめいた女生徒達から、次々に溜め息が漏れた。

 気になっていた、サラの首に付いた大量のキスマークは、白いシャツとカーキのニットセーターで綺麗に隠れていた。
 どれだけたくさんの女の子達から視線を浴びたって、あの服の下にはわたしが触れた痕がある。

 そう思うと独占欲が満たされ、ちょっとした優越感が生まれる。
 首にキスマークを付ける行為をあれだけ茶化していたのに、今なら付けたくなる気持ちがよく理解出来た。

 そろそろ演奏も終盤に差し掛かった頃。
香音さんのピアノを奏でる指が一瞬、止まった。
 その直後から次々にミスタッチが続く。
 どうしたのだろうか、とこちらがハラハラするより先に、サラは途切れ途切れになった伴奏を導くようにして、旋律を奏で始めた。

 その旋律を頼りに、ピアノが徐々に音を取り戻していく。
 伴奏が安定しだすと、サラと香音さんはお互いに目を合わせ、頷き、微笑み合った。

 サラの心は香音さんにある。
 優しい笑顔を向けるサラを見て、そう思わずにはいられなかった。
 わたしの方がずっと前からサラを知っていたのに、最近知り合ったばかりの二人の間には既に他の人が近付けない何かがある。
 それは一つの目標に向けて、何度も一緒に演奏をすることで築かれて来た信頼関係や、仲間意識のような類のものも含まれているのかもしれない。
 でもそれ以上に、二人の仲は親密に見えた。
 親密になりたい、と願っているようにも。

 記憶がなくなるまで飲んで酔っ払ってしまったあの日、わたしは心のない空っぽの身体に触れただけだったのだ。
 分かってはいたが、それでも、触れた時のことを覚えていなくてラッキーだった。
 もしも覚えていたら、もう二度とサラと友達には戻れなかっただろうから。











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