君を忘れてしまう前に



 校舎の端っこにある、空きスペースに置かれたボロいソファに腰を下ろす。
 人通りが少なく、学内で考えごとをしたい時はいつもここに来るのがお決まりだった。

 くたくたになったクッションを抱いて、深く息を吐く。

 二人の演奏は素晴らしかった。
 途中、ハラハラした瞬間はあったものの、サラの完璧なフォローで最後は上手くまとまっていた。

 サラは演奏に関しては、自分にも他人にも厳しい。
 特に人前で演奏する場面においては、どれだけ難しくても完璧に演奏が出来て当たり前、というタイプだ。
 にも関わらず、ミスタッチを繰り返していた香音さんには優しかった。
 フォローの後、お互いに見つめ合って微笑んで。
 サラは香音さんの実力を認めていて、二人は信頼し合っている。
 とても幸せそうだった。

 それに対してわたしときたら、二人の演奏を遠くから眺めているだけだった。
 サラはいつも普通に接してくれるのでつい忘れがちになってしまうが、わたしとは立場が違う。
 学内の期待を一身に背負う存在だ。

 香音さんだってそうだ。
 わたしも次の学内コンサートであの二人と同じステージに立つなんて信じられない。
 どうしてわたしが選抜試験に受かったんだろう。
身の丈に合っていない。恥をかくだけだ。

 実際、サラも香音さんも果てしなく遠い場所にいる。
 そして、わたしなんか手も届かない程の才能を持った人同士が、磁石のように惹かれ合っているのだ。
 これ以上になく、お似合いじゃないか。

 服の隙間から、胸元に付いたキスマークを覗き見る。
 確かにわたしの身体にはサラに触れられた痕が残っているのに、これには何の意味も込められていない。
 それでも、サラと身体を重ねたことによって、どこかで何かを期待している自分がいる。
 最初から望んでいい相手じゃないのは分かっていたはず、なのに。

「わたし、何やってんだろ……」

「休憩?」

 頭に、ぼす、と重みが加わる。
 それがサラの手のひらだということは、すぐに分かった。

 サラはわたしの真横を通り過ぎると、手に持っていたペットボトルをローテーブルに置き、向かい側のソファに腰を下ろした。

「お疲れ」

「お疲れ、あれ? なんでサラ? あれ?」

「この場所、仁花に教えたの俺なの忘れたのか? 俺が来んのは当然だろ」

「そうだけど……さっき演奏終わったとこだし、まだ練習とかなんか色々あるだろうから、すぐにここに来るなんて思ってもみなかった」

「あぁ、さっきの仁花、顔が押し潰されてて面白かった」

「わたしがいたの知ってたの!?」

「知ってたよ」

 しれっと答える。
 サラは一度だってこっちを見なかったのに、わたしの存在に気付いていたというのだ。
 あれだけの演奏をこなしておいて、あの大勢の中に誰がいるのか把握していたなんて。

「準備は? この後、公開練習だろ」

「そうだけど……ちょっと考えごとしてたんだ。何か、わたし、全部上手くいかないなあと思って」

 サラは、ストレートティーの入ったペットボトルを手に取りキャップを開けた。
 返事はないが、このまま話を続けても良いということだろう。

「どれだけ練習しても上手くいかないし、そもそも人が喜んでくれるような演奏のレベルじゃないし。こんな状態でコンサートに出ても恥かくだけだなって思って。てか何でわたしが出れるんだろって」

 あぁ、自分で言っててめちゃくちゃ情けない。
 そんな弱音を吐いている時間があるなら練習しろ、とお叱りを受けたって仕方のない内容だ。
 それもストイックに輪をかけたようなサラを前にして、わたしはなんて恥ずかしい言葉を口にしているのだろう。
 いや、それよりも、こんな醜態を晒してもなお、少しでもサラに良く思われたい、なんて思っているわたしは真の大馬鹿者だ。

「あのな」

 サラの声に、ドキリ、と鼓動が跳ねる。

「人が喜んでくれるような演奏なんて出来る訳ねーだろ、お前が何したいのか分かってねーのに」

「え」

「自分が何したいのか分かんねーのに、聴き手がお前に何をして欲しいと思ってるか分かると思うか? 音楽、好きなんだろ。じゃあ、好きにやれよ。そうやってやりたいようにやらねーと、今みたいに自分のこと見失うぞ」

 サラは、ソファの背もたれに身を預けた。




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