君を忘れてしまう前に
「誰かのことを喜ばせたいなら、まずはお前の好きなように演奏してみろよ。好きにやって、失敗したらその都度、直せば良いし」
「でも……皆の前で失敗したら恥ずかしいもん」
「皆は失敗そのものよりも、失敗した後のお前がどうするのか見てるよ。失敗くらい誰でもあるから。笑うやつは、はなから放っとけよ」
「……うん」
「それに練習は絶対に身になってるから。気付かないだけで。先生も色々とお前に教えてくれてんだろ? 伸びる証拠だろーが。もっと自分のことを信じろよ。何も怖がんなくていーから」
すぐに返事をしたいのに、くっと喉が詰まる。
こんなに甘ったれたわたしに、どうして優しい言葉をかけてくれるのだろう。
最近、悩むことが多かったせいか涙腺が弱っているらしく、瞬く間に視界が滲むも、ここで泣くのはもっと情けなくて何とか我慢した。
「そうだね」
声が震えてしまう。
サラの言う通りだ。
いつの間にか、頭で考え過ぎて好きなように演奏が出来なくなっていた。
とことん、自分の思った通りにやる。
答えはたったこれだけのことだったのだ。
「よし、頑張る。そろそろ公開練習が始まる時間だから行こうかな。サラはこれからまた練習?」
「うん」
二人の練習風景を勝手に想像して、つきりと胸が痛む。
たった今、サラから心のこもった言葉をたくさん貰ったばかりなのに、わたしはどれだけ欲張りなのだろうか。
雑念を振り払うように勢い良く席を立った。
「そっか。サラも練習頑張ってね。相談に乗ってくれてありがとう。それじゃあ、行ってくる!」
「頑張れよ」
わたしは大きく頷いて、駆け足で教室へ向かった。
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「ん〜、今の演奏だとちょっと物足りないわね」
わたしの歌を聴き終えると、先生は長い黒髪を指で梳きつつ、ミニスカートから伸びるむっちりとした白い足を組み直した。
先生の動作の一つ一つが色気に溢れている。
わたしは見慣れているが、大学の講師にしてはいかがわし過ぎる様子に初めて見る生徒達はびっくりするだろう。
髪をかき上げる先生を後目に、わたしはアコースティックギターを持って譜面台の前に立った。
いよいよ、わたしの公開練習が始まった。
今の時間帯はポピュラーの生徒達は授業がある為、演奏を見に来てくれる人はおろか友人さえもほとんどおらず、教室内はガランとしている。
教室内にいるのは生徒が二人と、学内コンサートを取り仕切る先生方が三人程。
サラ達の演奏時に比べれば遙かに人は少ないものの、誰かにレッスン風景を見られているという緊張感は大いにあった。
「米村さんは、恋してる?」
「……え、恋、ですか?」
レッスン中だというのに、先生は何を言い出すのだろうか。
唐突な質問に、戸惑いを隠せないでいたその時。
ガチャ、と教室のドアが開いた。入って来たのはサラだった。
教室内がざわつき、一斉にサラに視線を向ける。
まさか、学内一の有名人がポピュラーの生徒の、それも目立たず成績もぱっとしないわたしのレッスンを見に来るなんて、誰も予想だにしていなかったからだ。
わたしだってそうだ。
サラは練習に行ったものだと思い込んでいた。
「米村さん、質問に答えて」
レッスンに集中しなさい、とでも言わんばかりの強い口調だった。
先生の方へ向き直し、姿勢を正す。
そうだった。今はレッスン中だ。
気を引き締めなければ。
「米村さんは恋してるの? 出来ればわたしはしてて欲しいなって思うのよね。それが今までで一番だと思えるくらい、大切な恋だと更に良いんだけど」
なぜ、このタイミングでそんなことを。
こんな会話は、気のおけない友人同士の間で楽しくこっそりとするものだ。
なのに皆の前で、というよりもサラ本人の目の前で話さないといけないなんて、わたしにとっては拷問以外の何ものでも無い。
どうにか答えを誤魔化そうと頭をフル回転させるも、わたしには気の利いた言葉のボキャブラリーは皆無だった。
「ね、どうなの?」
パイプイスに座る先生から、にじり寄るような圧を受け、わたしはあえなく観念した。
「あ、は……はい、あの。してます、してます」
「良かった。じゃあ、その相手のことを頭に浮かべて、もう一度歌ってみて。この場にいることは忘れてね。その人と二人きりになったつもりで」
「……分かりました」
マイクの前に立ち、ギターの弦を押さえる。
不意にサラと目が合って、大量の冷や汗が吹き出た。
目の前にいます、先生……!
雑念が入り乱れ、緊張感が更に増す。
これでは、全く集中が出来ない。
「さ、米村さん、どうぞ」
「はい……」
正に崖っぷちだ。
好きな人を想って作った恋愛の曲を、好きな人の前で、好きな人がいるとバラされた上で歌う。
こんなことってあるのだろうか。
今、猛烈に泣きたい。
『とことん好きなようにやれよ』
サラのくれた言葉が、ふと、耳を掠めた気がした。
そうか。今が正しく、その時だ。
恥ずかしいことも辛いことも悲しいことも何もかも忘れて、好きなようにやれば良い。
わたしが作った恋愛の曲だ。
それを今、目一杯、歌いきれば良いのだ。
歌詞に直接、名前が入っている訳ではないし、サラのことを歌っているだなんて誰も気付かないだろう。
心で想っていればいいだけだ。
誰もわたしの心なんか覗けない。
それよりも。
『もっと自分のことを信じろよ』
わたしは今、この言葉に答えたい。
マイクに声を乗せる。
やっぱり下手くそだな、と思った。
サラと香音さんには死んだって追いつけないだろう。
それでも、この瞬間だけはわたしのものだ。
好きなことを好きなように、思い切り、やる。
自分のことを、信じられる自分になる為に。