君を忘れてしまう前に


 公開練習の後、今日の演奏について先生からはまあまあ、という評価を貰った。
 いつも全然ダメ、と口癖のように言われ続けて来たのに、今回はまさかの「まあまあ」。
 今までで一番、良い評価だった。
 確かに、何かを掴んだという実感がある。
 嬉しくてすぐにサラの姿を探したが、どこにもいなかった。


 すべての授業を終えた夕刻。
 わたしは、ポピュラーの校舎にあるサロンのドアを開けた。
 壁一面の大きな窓ガラスから赤い夕陽が射し込むこの場所は、食事をしたり他愛もない会話を交わしたり、のんびりと過ごせるスペースになっている。
 そのサロンの一角で、わいわいと楽しそうに話をしているグループが目に入った。

 すぐに分かった。
 サラがいる。
 授業が終われば決まって遅くまで練習をしているサラが、この時間にポピュラーの校舎のサロンにいるなんて珍しい。
 どうしたのだろうか。
 何にしろ、今日はもう会えないと思っていたサラに会えて嬉しかった。

 引き寄せられるようにして歩みを進めていると、わたしの足音でテーブルにいるサラ達が振り向いた。

「あ、お疲れ〜!」

「仁花じゃん、お疲れ! 今日の公開練習どうだった?」

 テーブルで話していたのは、みつきと涼《りょう》だった。

「お疲れ〜! 公開練習、楽しかったよ!」

 みつきの隣の席が空いていたので、そこに座る。
 ところが、サラは向かいの席で頬杖をついたまま一向にわたしの方を見ない。
 少し素っ気なく思うのは、気のせいだろうか。

「サラ、お疲れ! 今日は公開練習見に来てくれてありがとう!」

「お疲れ」

 やっぱり、サラはわたしの方を見ない。

「あの後、先生から今までで一番良い評価貰えたんだ。サラのおかげだよ。忙しいのに来てくれてありがとうね、嬉しかった」

「お前のレッスンの先生、めっちゃエロいな」

「は」

「分かる、リカコ先生だろ? めっちゃエロいよな」

「あんなん、俺だったらレッスンに集中できねーわ」

 何を言い出したのかと思えば。
 サラと涼は軽い笑い声を立てている。
 一体、何が面白いのか分からない。

「バカじゃないの」

 わたしのレッスン中、サラはリカコ先生のことばかり見ていたらしい。
 何だ、それ。
 サラが教室に入って来た時は驚いたものの、内心、凄く嬉しかったのに。
 こういうのはあれだ。
 一本毛のあの人にバカモンとでも怒鳴りつけられれば良い。
 そして、たっぷり反省すれば良いのだ。

「え、サラ、仁花のレッスン見に行ったんだ。ちょっとびっくり」

 涼は何で? と首を傾げる。

「だって、サラって一回でも聴いたことがある人の演奏って滅多に聴きに行かないからさ。意外だなと思って」

「サラに演奏のことでちょっと相談に乗って貰ってたから。それで気にかけてくれてたんだよね」

「そうなん? 相談に乗ったからってその後のこといちいち気にするようなヤツじゃねーだろ、サラは。やっぱ、リカコ先生が目当て?」

「うわ、最低」

「みつきには分かんねーよ。リカコ先生の良さは。あ〜俺も見たかったな〜、リカコ先生のレッスン。てか仁花もさ、先生からちょっとはタメになるよーな色気について学んで来いよ」

「は? タメになるよーな色気って何よ」

「は〜、わっかんねーかな。こっちがたまんねーってなるようなヤツだよ。それさえあれば、すぐに彼氏できんぞ」

 彼氏……か。
 そんな存在、今まで皆無だった。
 ずっとわたしには音楽しかなかったし、それ以外の世界を見てみたいとも思わなかった。
 でも、サラと出会って誰かを好きになる気持ちを初めて知ったのだ。
 いつの間にか好きになっていた、緩やかな恋の始まりだった。

 相手がサラなだけに、その気持ちを誰かに打ち明けることは出来なかったものの、密かに想いを募らせる日々が好きだった。
 ほんの些細なことでも、幸せだと感じられるから。

 こんなわたしでも、誰かに好きになって貰いたい、と望むのは贅沢なのだろうか。
 そして、その幸せを一緒に分かち合いたいと望むことも。

 勿論、相手は誰でも良い訳じゃない。
 本音を言えばサラが良い。
 でも、それは叶わないのだ。

「そっか。それさえあれば……わたしにもそのうち出来るのかな、彼氏」

「できねーよ」

 間髪入れず、サラが答える。
 少しイライラしているようにも見えた。

「むり無理。お前のこと好きになるやつなんかいねーよ。男と一緒にいるとことか全く想像できねーわ」

「ちょっと、サラ、それは言い過ぎ」

 まだ言葉を続けようとするみつきの腕を掴む。

「みつき、良いの、その通りだから」

「でも」

「ほんとに。わたしも自分で言いながらそんなの想像出来ないなって思ってたし」

 わたしは今、上手く笑えているだろうか。
 もしかすると、顔が引きつっているかもしれない。
 駄目だ、これ以上取り繕えない。
 今にも音を立てて崩れそうな心を支えるのに精一杯だった。

「わたし、ちょっとトイレ行ってくるね」

「あ、仁花」

 みつきの呼び止める声は聞こえないフリをして、サロンを出る。
 ドアを閉めた瞬間、どっと涙が溢れ出てきた。
 間に合った。
 良かった。皆の前で泣かずにすんで。

 公開レッスンでわたしが歌っている間、サラはどんな想いで聴いていたのだろう。
 こいつが誰かを好きになるなんてあり得ない、とでも思っていたのだろうか。
 まともに恋愛なんか出来る訳がないだろう、と。

 恋愛するのも許されないくらい、わたしって魅力がないのだろうかと卑屈になる。
 何の取り柄も無くぱっとしない自分を自覚していただけに、サラの言葉は胸に突き刺さった。
 でも。それでも。

「さっきは一生懸命、歌ったんだけどな……」

 涙がポロポロと頬を濡らす。
 わたしの好きな人はサラだということを、本人に伝えたいとは思わない。
 伝えたところで、サラが困るのは目に見えているから。
 でも歌を通して、この恋を大切にしていたというわたしの想いは伝わって欲しかった。
 わたしの演奏が拙いせいだと言われてしまえば、それまでなのだけれども。

 サラと関係を持って、本当はこうして泣きたかったのかもしれない。
 わたしは、大切にしていた恋をたった一晩で失ってしまったのだから。

 昨日の朝の光景が鮮明に蘇る。
 サラは言ったのだ。
 裸のままのわたしを見て、最悪、と。 

 あれは、女として何の魅力も感じないわたしと酔った勢いで繋がりを持ってしまい後悔している、という意味だったのだろう。
 明らかに、何でお前が、というニュアンスだった。

「きつ……」

 わたしはしばらく、その場から動けなかった。




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