君を忘れてしまう前に



「え、こっちもいっぱいですか?」

「そうですね。今の時間、練習室は満室です」

 ポピュラーの校舎の練習室が満室だったので、クラシックの校舎まで来たのは良いものの、こちらも同じく満室状態が続いているらしい。

 昨日の公開練習がいい刺激になったのか、練習に励む生徒達で学内が溢れ返り、今日はなかなか練習室に入れない。
 出演者として喜ばしいことなのか喜ばしくないことなのか。
 一日中、満足な練習が出来ず、気付けば17時を回っていた。

「あいつポピュラー?」

「ポピュラー来んなよ」

 後ろからヒソヒソと聞こえて来る罵りは、わたしに向けてのものだろう。
 ポピュラーの生徒はクラシックの生徒に比べラフな服装をしているので、どちらの生徒なのか見た目ですぐに判断がつく。
 膝丈スカートとカーディガン、それにブランドバッグを持つのがデフォルトのクラシックの校舎で、大きめのパーカーにジーンズとスニーカー姿のわたしはかなり浮いていた。

「だっさい服装」

「帰れよ」

 ねちねちと続く悪口にかちんと来たわたしは、すぐさま言い返してやろうと鼻息を荒げて振り返った。
 そこにいたのは、デフォルトの服装をした女の子が二人。
 こちらを睨みつけているが、怖くも何ともなかった。

「ちょっと、何なのっ、」

「もしかして、練習室いっぱいだった?」

 女の子達からの鋭い視線を遮るようにわたしの前に立ったその人は、香音さんだった。
 爽やかな甘い匂いを漂わせ、突然現れた香音さんにわたしは驚きを隠せなかった。

「あ、は、は、はい……」

「良かったら、わたしが予約してた部屋使う? わたし、急用が出来て今から帰らなくちゃいけなくなって」

 香音さんは、バッグの中から部屋番号が印字されたキーホルダー付きの鍵を取り出した。

「良かったら、どうぞ」

 香音さんとはこれが初対面だ。
 以前からわたしが一方的に知っていただけで、香音さんはわたしのことを知らない。
 それなのに、困っているわたしにこうして声を掛けてくれるなんて。
 しかも、理不尽な悪口からもかばってくれて。

 なんて素敵な人だろう。
 尊い、と何度も心の中で呟きながら鍵を受け取ったわたしの手は、緊張して小さく震えていた。

「あ、あの、ありがとうございます」

 振り絞って出した声に、香音さんは優しい笑みを返してくれた。
 その背中から後光が射し、どこからともなく賛美歌が聴こえる。
 これは気のせいじゃない。
 香音さんは女神様だったのだ。

「女神さま……」

「は?」

 サラの声がして、はっと現実に引き戻される。

「お前、何してんのここで」

 前の方から歩いて来たサラは、当たり前のようにわたしの隣に並んだ。
 昨日のことがあってから正直、気まずい。
 今日は何となくサラに会うのを避けていただけに、ここで鉢合わせてしまったのはちょっとした痛手だった。

「いや、ちょっと……練習室がどこも満室で困ってたんだけど香音さんに声掛けて貰って……」

 香音さんから貰った鍵をサラの前に差し出す。

「へー。じゃあ今日はこっちで最後までいんの」

「そう……だよ」

 サラは至って変わらない態度で接してくる。
当然だ。昨日の出来事はわたしにとってショックだったが、サラにしてみれば、ただサロンで友人達と話をしたというだけに過ぎない。

「サラ君も練習?」

「はい」

 香音さんの問いかけに答えるサラの声は、いつもよりも落ち着いていた。
わたしの時は、もっと雑で砕けているのに。
 香音さんの前だからだ。
 そんなことを思っても仕方がないのに、心が言うことを聞いてくれない。
 これは叶わない恋なのだ。

 目の前で向かい合って言葉を交わす二人は、それだけで絵になる。幸せそうだ。
 潔く良く身を引くべき。それ以外、選択肢はない。
 それなのに。それは分かっているのに。
 香音さんを見つめるサラの横顔に、どうしても訴えてしまう。

 サラ、こっちを見て。
 香音さんじゃなくて、わたしを見て欲しい。

「サラ君と喋ってたら元気出たよ、ありがとう」

「ほんとですか。僕で良かったらいつでも話してください。暇だったら相手するんで」

「何、その言い方! わたし一応先輩なんだけど」

 わたしの願いをよそに、サラと香音さんは楽しげに会話を続けている。
 意地悪な生徒達からかばってくれたしっかり者の香音さんは、サラの前ではとても可愛いらしい人だった。
 その変化が、サラにとって心地のいいものらしい。
 わたしには、それが手に取るように分かってしまった。

 それでもお願い。
 一度だけで良いから。こっちを見て。

 強く訴えるも、その目は香音さんに向けられたままだった。
 心なしか、耳が赤くなっている気がする。

『お前のこと好きになるやつなんかいねーよ』

 サラの言葉が頭の中でこだまする。
―――やっぱり、そうだよね。この想いは届かなくて良かった。これで良かった。これが正解だった。
 照れたサラを目の前にして、そう自分に言い聞かせるしかなかった。

「じゃあ、わたし、これで……」

 二人に背を向けて駆け足でその場を去る。
 サラが何かを言いかけていたような気もしたが、構わず、わたしは練習室へ向かった。





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