君を忘れてしまう前に
楽しそうな顔。赤くなった耳。からかう言葉。
脳裏にこびりついた映像をすべて吹き飛ばすように、アコースティックギターを掻き鳴らしてがむしゃらに歌う。
今は何も残したくなかった。
いつになく夢中で演奏し続けていたからか、次に時計を見ると針は21時ちょうどを指していた。
「やば、帰らないと。学校閉まっちゃう」
ちょうどのタイミングで、最終下校時刻を知らせるクラシック音楽が校内放送用のスピーカーから流れ始めた。
イスから飛び上がるようにして立ち上がり、慌ててギターケースを開く。
そこでノック音が室内に響いた。
ドアの方も見ずに返事をする。
「はい! どうぞ!」
「あ……すみません」
ドアが開き、声をかけられるもその声にはまったく聞き覚えがない。
片付けながら入口の方を見ると、そこにはサラと仲のいい後輩で、ヴァイオリン専攻の男の子が立っていた。
サラと同じく、いつも女の子達にキャーキャー騒がれていて、学内ではとても目立つ子だ。
名前は……思い出せない。
まあ、いいか。彼はわたしの事すら知らないだろう。
それよりも、こんな時間に何の用だろうか。
彼はわたしと目が合うと、すまなさそうに頭を下げた。
「どうしたの?」
「すみません……香音さんは?」
「香音さんはもう帰ったよ。ここの部屋は香音さんが借りてたんだけど、譲って貰ったんだ」
「そうだったんですか」
明らかにしゅん、としている。
よっぽど会いたかったのだろう。
恐らく、この子も香音さんのことが好きなのだ。
あんな素敵な人が近くにいたら皆好きになってしまうのは当然だ。
女のわたしでさえ、一瞬で好きになってしまった。
綺麗で、優しくて、成績も優秀で。
あんなに完璧な人は滅多にいない。
だからこそ、サラも―――
「あの、仁花さん、ですよね?」
「え、わたしのこと知ってるの?」
「勿論、知ってますよ! いつもサラさんと仲良くされてますよね。サラさんから、仁花さんの楽しいお話をよく聞かせて貰ってます」
「仲はいいけど……わたしの楽しい話って何?」
「バナナの皮踏んで漫画みたいにすっ転んだ話とか、講義中に居眠り始めて眠たいって寝言言ってた話とか、あとは」
「待って、もういい! もういいよ、サラがロクな事言ってないのはよく分かった! 何なの、あいつ! 最低!」
「サラさんのこと最低って言ってる人、初めて見ました」
「え、ほんとに? ごめん」
サラの後輩は、子どものように笑っている。
初めて喋ったわたしの前で、これだけ思い切り笑ってくれるなんて。
前からとっつきにくそうだとは思っていたが、人懐っこい可愛い子だ。
とはいえ、間接的にサラにからかわれたような気がして複雑な気分にもなる。
「片付けしてたのに、邪魔しちゃってすみません。それじゃあ」
ドアノブに手を掛けたサラの後輩を、待って、と呼び止めた。
急いでグランドピアノの上に置いていた譜面をバッグに入れ、ギターを背負う。
「わたしも一緒に出るよ……えっと、ごめん、名前なんだったかな」
「自己紹介まだでしたね、すみません。僕、古河 和馬っていいます」
「おっけー、和馬君ね。覚えたよ。わたしの苗字は知ってる?」
「すみません、知らないです」
「わたし、米村っていうの。ポピュラーの3年生でヴォーカルのレッスンを受けながら、ギターを専攻してるんだ。和馬くんはヴァイオリンだよね?」
「そうですね、一応」
軽く自己紹介をしながら和馬君の前に立ち、ドアノブに手をかける。
ドアを押すと、開いた隙間から人影が見えた。
前に誰か立っていたらしい。当たったら大変だ。
咄嗟にドアを開く手を止めた。
「あ、すみませ……」
「仁花」
ドアの前で立っていたのはサラだった。