水縹のメロディ
4-5
「十年以上経ってたけど、すぐにわかったよ。ただ、残念なのが、その子には恋人がいた」
それはハルの失恋だったのだろうか。
女の子だとは聞いていないけれど、夏紀はそんな気がした。
「いなかったら、立候補するつもりだったんだけどな。結構綺麗になってたし。俺も、ふられる気はしなかった」
確かにハルさんかっこいいですもんね、と夏紀は黙って頷いた。
「それで──ピアノは、どうしたんですか」
「しばらくしてから、教えることになったよ。恋人とも別れたみたいだし。でも──俺がどれだけ頑張っても、振り向いてはくれなかったよ、ナツは」
途中から、そんな気はしていた。
夏紀は中学三年生のときにピアノの発表会に出て、それからすぐに父親の仕事の都合で引っ越すことになった。今からちょうど十二年前だ。
「あのとき、ナツ、何弾いたか──タイトル覚えてる?」
夏紀は当時のことをはっきりと覚えていた。
自分の出番は二回あって、一つは小学生との連弾だった。けれどハルが聞いているのは、夏紀が一人で弾いたほうだろう。
「きらきら星、の主題……による変奏曲……?」
曲は有名だから、きっと誰もが知っている。けれど正式なタイトルは、いまいちわからない。『きらきら星』と呼ばれているのは、後からついた名前だ。
「『“ああ、お母さん聞いて”の主題による十二の変奏曲』。中学生にしては、よく弾けてると思ったよ」
先生から最初に『きらきら星』と言われたとき、夏紀は「なんだ、簡単?」と思った。けれど実際に楽譜を見たときは、変奏の数と厄介な音符の配置に戸惑いを隠せなかった。
「今は、たぶん、弾けないです……。あのときは最後ってわかってたから、猛練習して……」
「結果、俺の目にとまった。時間はかかったけど、教えられるようにもなった」
「あの、何が──私の何が、ハルさんに近かったんですか?」
大人になった今はそんなに気にならないけれど、中学三年生にとって八歳上はかなり先輩だ。いったい何が一緒だったのか、夏紀にはわからない。
「俺、あれ好きなんだよ。ナツがいつも家で弾いてるやつ」
そう言ってハルは、何かのメロディを歌いだした。最初は何かわからなかったけれど、聴いているうちにベートーヴェンの『ロンド』だとわかった。
「うちの生徒も何人かやってるし、ネットでも見れるけど、ナツが弾いてるのがいちばん聴いてて落ち着くんだ。楽譜の指示よりも、敢えてゆっくり弾いてるところが」
指示通りに弾くと五分で終わる曲だけれど、夏紀が弾くといつも七分を越えていた。フェルマータが入っているから、八分を越える可能性もある。
「曲にもよるけど、音楽は、ゆっくり聴いてたいから、俺。きらきら星はそんなにゆっくりじゃなかったけど、弾いてる姿を見てて、この子は丁寧に弾く子だな、って思った。教室に行った時も、先生はそう言ってたし、実際、思った通りだった」
ハルは椅子から立ち上がり、再び夏紀の隣にやってきた。
「絶対ないから。ナツのこと、見放したりしない。何があっても。やっと見つけたのに」
ハルの近くにいることは、既に慣れたはずなのに。
至近距離で見つめられ、緊張して恥ずかしくて、心臓が飛び出しそうな気がした。
「ナツに聴いてほしい曲があるんだ」
「……何ですか?」
「雨音の主題による、たくさんの変奏曲。雨の日も、晴れの日も、俺は──ナツと一緒にいたい。本気だから。ナツが好きだ」
ただ隣に座っているだけで、動きを封じられてはいないのに。
ハルのその真っ直ぐな視線から、夏紀は逃げることはできなかった。あまりに綺麗な目をしているから、じっと見ていると吸い込まれそうで──。
「ナツ。変奏曲、聴いてくれる?」
「……はい」
夏紀にフェルマータが付いたのは、目の前でハルが笑顔になるのを見た直後。
はっきりとした音はしない、けれど音の鳴らない休符でもない。意識の奥の遠くのほうで、甘い香りがする。
──やがて夏紀が聞いたのは、雨が屋根や窓を叩く音。
状況を理解する間に、聴覚が正常になっていく。全身の感覚が戻るのを待って、閉じていた目をゆっくりと開ける。
「秘密だよ。俺とナツの」
甘く、優しく、温かいメロディが雨音に重なり、二人を繋いだ。
♪『ああ、お母さん聞いて』の主題による十二の変奏曲
https://youtu.be/Nd77z-7tQ6I
それはハルの失恋だったのだろうか。
女の子だとは聞いていないけれど、夏紀はそんな気がした。
「いなかったら、立候補するつもりだったんだけどな。結構綺麗になってたし。俺も、ふられる気はしなかった」
確かにハルさんかっこいいですもんね、と夏紀は黙って頷いた。
「それで──ピアノは、どうしたんですか」
「しばらくしてから、教えることになったよ。恋人とも別れたみたいだし。でも──俺がどれだけ頑張っても、振り向いてはくれなかったよ、ナツは」
途中から、そんな気はしていた。
夏紀は中学三年生のときにピアノの発表会に出て、それからすぐに父親の仕事の都合で引っ越すことになった。今からちょうど十二年前だ。
「あのとき、ナツ、何弾いたか──タイトル覚えてる?」
夏紀は当時のことをはっきりと覚えていた。
自分の出番は二回あって、一つは小学生との連弾だった。けれどハルが聞いているのは、夏紀が一人で弾いたほうだろう。
「きらきら星、の主題……による変奏曲……?」
曲は有名だから、きっと誰もが知っている。けれど正式なタイトルは、いまいちわからない。『きらきら星』と呼ばれているのは、後からついた名前だ。
「『“ああ、お母さん聞いて”の主題による十二の変奏曲』。中学生にしては、よく弾けてると思ったよ」
先生から最初に『きらきら星』と言われたとき、夏紀は「なんだ、簡単?」と思った。けれど実際に楽譜を見たときは、変奏の数と厄介な音符の配置に戸惑いを隠せなかった。
「今は、たぶん、弾けないです……。あのときは最後ってわかってたから、猛練習して……」
「結果、俺の目にとまった。時間はかかったけど、教えられるようにもなった」
「あの、何が──私の何が、ハルさんに近かったんですか?」
大人になった今はそんなに気にならないけれど、中学三年生にとって八歳上はかなり先輩だ。いったい何が一緒だったのか、夏紀にはわからない。
「俺、あれ好きなんだよ。ナツがいつも家で弾いてるやつ」
そう言ってハルは、何かのメロディを歌いだした。最初は何かわからなかったけれど、聴いているうちにベートーヴェンの『ロンド』だとわかった。
「うちの生徒も何人かやってるし、ネットでも見れるけど、ナツが弾いてるのがいちばん聴いてて落ち着くんだ。楽譜の指示よりも、敢えてゆっくり弾いてるところが」
指示通りに弾くと五分で終わる曲だけれど、夏紀が弾くといつも七分を越えていた。フェルマータが入っているから、八分を越える可能性もある。
「曲にもよるけど、音楽は、ゆっくり聴いてたいから、俺。きらきら星はそんなにゆっくりじゃなかったけど、弾いてる姿を見てて、この子は丁寧に弾く子だな、って思った。教室に行った時も、先生はそう言ってたし、実際、思った通りだった」
ハルは椅子から立ち上がり、再び夏紀の隣にやってきた。
「絶対ないから。ナツのこと、見放したりしない。何があっても。やっと見つけたのに」
ハルの近くにいることは、既に慣れたはずなのに。
至近距離で見つめられ、緊張して恥ずかしくて、心臓が飛び出しそうな気がした。
「ナツに聴いてほしい曲があるんだ」
「……何ですか?」
「雨音の主題による、たくさんの変奏曲。雨の日も、晴れの日も、俺は──ナツと一緒にいたい。本気だから。ナツが好きだ」
ただ隣に座っているだけで、動きを封じられてはいないのに。
ハルのその真っ直ぐな視線から、夏紀は逃げることはできなかった。あまりに綺麗な目をしているから、じっと見ていると吸い込まれそうで──。
「ナツ。変奏曲、聴いてくれる?」
「……はい」
夏紀にフェルマータが付いたのは、目の前でハルが笑顔になるのを見た直後。
はっきりとした音はしない、けれど音の鳴らない休符でもない。意識の奥の遠くのほうで、甘い香りがする。
──やがて夏紀が聞いたのは、雨が屋根や窓を叩く音。
状況を理解する間に、聴覚が正常になっていく。全身の感覚が戻るのを待って、閉じていた目をゆっくりと開ける。
「秘密だよ。俺とナツの」
甘く、優しく、温かいメロディが雨音に重なり、二人を繋いだ。
♪『ああ、お母さん聞いて』の主題による十二の変奏曲
https://youtu.be/Nd77z-7tQ6I