水縹のメロディ
5-4
さやかが夫・駒井勇馬を連れてハレノヒカフェに現れたのは、五月の上旬だった。二人とも会社がカレンダー通りの休みなので、連休を利用してさやかの実家に帰省していた。
「徹ちゃん、久しぶり! 彼女できた?」
と、徹二の顔を見るなり笑顔で聞いたさやか。
けれど彼が返事に困っているのを見るところ、残念ながら今もいないらしい。
「いきなりその質問はキツいだろ。あ、お久しぶりです。年末はお世話になりました」
さやかの後ろから現れた勇馬は、さやかを軽く叩きながら恵子と徹二に挨拶をした。それからピアノの近くに夏紀の姿を見つけて、さやかに知らせた。
「さやか、夏紀ちゃん、あっちに」
「あっ、夏紀ー、あれ……ちょっと、太ったんじゃない?」
「なによ、いきなり?」
夏紀は少し反論したけれど、さやかの勘は当たっていた。
家で食事をするときは夏紀が作っているけれど、カフェでハルと働きながら、彼が作った料理を食べることが増えた。料理はどれも美味しくて、お腹がいっぱいになってもついつい手が伸びる。通勤時間が無くなった分、脂肪がつきやすくなってしまったらしい。
「そういえば、さやかもちょっと太ったよな?」
「それは言わないで……。幸せ太りってことで! ね、夏紀!」
「う、うん……」
「あっ、やっぱり! 認めた!」
そうやって夏紀とさやかが笑っているのを見ている徹二を、ハルが呼びに来た。
ハルは勇馬とさやかに簡単に挨拶してから、徹二をカウンターの奥に入れた。
「本当に久しぶりね。ちょうど一年なのかな? さやかちゃんと夏紀ちゃんが初めてここに来てから」
お店もオープンしてから同じくらいだけどね、と言いながら、恵子は勇馬にアイスコーヒーを、夏紀とさやかにはアイスティーを出した。
「えっ、そんなに新しいんですか? このお店。居心地良いから、もう何年もやってるのかな、って思ってました」
「あれ、私、言わなかったっけ?」
「聞いてないよ」
「オープンの噂を聞いた時から来たかったんだけど、最初は一人って心細くてさ。夏紀を誘ったんだよね」
それは夏紀がプロヴァンスに引っ越してすぐの頃。
当時付き合っていた恋人にふられた帰り道で雨に打たれ、ハルが傘を貸してくれた日の夜だった。あのとき門の前で聴いたオカリナの音色が、やさしく蘇る。
雨に濡れている夏紀に、傘を渡して、走って帰ったハル。彼も全身濡れてしまっていたはずなのに、夏紀のためにオカリナを吹いてくれた。
引っ越した日に窓際に見た人がハルだったと、どうしてすぐに気付かなかったのだろう。
「──き? 夏紀? なに考えてんの?」
「えっ? あ……あの頃のこと思い出して……」
ふとカウンターの奥に目をやると、ハルと目があった。彼は何も言わずに口角を上げただけで、そのまま徹二に何かを指示していた。彼のことはすっかり見慣れているけれど、イケメンが真剣に働く姿に、夏紀は今も見惚れてしまう。
「ねぇ、夏紀、オーナーと徹ちゃん、何してるの?」
カウンターの奥に呼ばれた徹二は、ハルの隣で真剣な顔をしていた。
二人が立っているのは調理場なので何かの料理をしているのは間違いないし、今までにも何度か見たことはあった。
けれど今のハルと徹二は、今までとは様子が少し違っていた。
「それ……言って良いのかな?」
再び夏紀がハルのほうを見ると、今度は彼は「いいよ」と言ってくれた。そのまま徹二についているハルを見たまま、夏紀は口を開いた。
「徹ちゃん、ハルに弟子入りしたんだって」
大学生の徹二は就職活動の時期になり、いくつかの企業の資料を取り寄せていた。
説明会に参加したり先輩の話を聞きに行ったり、夏紀の会社の話を聞いてきたこともあった、けれど。
最終的に彼が選んだ就職先は、ハレノヒカフェだった。
「テツ、それ本気? 期待するほど給料出せないよ」
と、オーナーであるハルに言われても。
「そうよ、徹ちゃん。私が言うのも変だけど、ちゃんとした会社に勤めた方が生活安定するよ?」
と、人生の先輩・恵子に言われても。
「私も時間あったら手伝うし、あとのこと心配しなくて大丈夫だよ」
と、夏紀に言われても。
「確かに、どこかの企業に勤めるほうが良い、とは思うんですけど、僕はこの店が好きなんです。料理なんかほとんどしたことなかったのに、いろんなこと教えてもらって、任せられるようにもなって……。離れたくないんです。副業禁止の会社も多いから、バイトは無理で……」
徹二の真剣な願いを、ハルも真剣に聞いた。
恵子に意見を聞いて、閉店後、ハルと夏紀は話しあった。
「ナツはどう思う? テツのこと」
「残ってくれると嬉しいけど、本当にそれで良いのかな……。外の世界を見た方が良い気もするし。給料も絶対良いだろうし。でも、いなくなると寂しいよね」
最後の一言に、ハルは複雑な顔をしたけれど。
悩んだ末に、徹二の願いを聞いてあげることになった。もちろんそれは、彼が両親にきちんと事情を話して、理解してもらうという条件付きだった。
「もし反対を押し切ってたら、解雇するから。テツの人生、狂わせたくないから」
「はい! さっそく今晩、話してきます! ありがとうございます!」
そして徹二は両親を説得することに成功し、ハルに弟子入りした。徹二の両親は彼の気持ちを知っていたのか、反対は全くされなかったらしい。
「徹ちゃん、久しぶり! 彼女できた?」
と、徹二の顔を見るなり笑顔で聞いたさやか。
けれど彼が返事に困っているのを見るところ、残念ながら今もいないらしい。
「いきなりその質問はキツいだろ。あ、お久しぶりです。年末はお世話になりました」
さやかの後ろから現れた勇馬は、さやかを軽く叩きながら恵子と徹二に挨拶をした。それからピアノの近くに夏紀の姿を見つけて、さやかに知らせた。
「さやか、夏紀ちゃん、あっちに」
「あっ、夏紀ー、あれ……ちょっと、太ったんじゃない?」
「なによ、いきなり?」
夏紀は少し反論したけれど、さやかの勘は当たっていた。
家で食事をするときは夏紀が作っているけれど、カフェでハルと働きながら、彼が作った料理を食べることが増えた。料理はどれも美味しくて、お腹がいっぱいになってもついつい手が伸びる。通勤時間が無くなった分、脂肪がつきやすくなってしまったらしい。
「そういえば、さやかもちょっと太ったよな?」
「それは言わないで……。幸せ太りってことで! ね、夏紀!」
「う、うん……」
「あっ、やっぱり! 認めた!」
そうやって夏紀とさやかが笑っているのを見ている徹二を、ハルが呼びに来た。
ハルは勇馬とさやかに簡単に挨拶してから、徹二をカウンターの奥に入れた。
「本当に久しぶりね。ちょうど一年なのかな? さやかちゃんと夏紀ちゃんが初めてここに来てから」
お店もオープンしてから同じくらいだけどね、と言いながら、恵子は勇馬にアイスコーヒーを、夏紀とさやかにはアイスティーを出した。
「えっ、そんなに新しいんですか? このお店。居心地良いから、もう何年もやってるのかな、って思ってました」
「あれ、私、言わなかったっけ?」
「聞いてないよ」
「オープンの噂を聞いた時から来たかったんだけど、最初は一人って心細くてさ。夏紀を誘ったんだよね」
それは夏紀がプロヴァンスに引っ越してすぐの頃。
当時付き合っていた恋人にふられた帰り道で雨に打たれ、ハルが傘を貸してくれた日の夜だった。あのとき門の前で聴いたオカリナの音色が、やさしく蘇る。
雨に濡れている夏紀に、傘を渡して、走って帰ったハル。彼も全身濡れてしまっていたはずなのに、夏紀のためにオカリナを吹いてくれた。
引っ越した日に窓際に見た人がハルだったと、どうしてすぐに気付かなかったのだろう。
「──き? 夏紀? なに考えてんの?」
「えっ? あ……あの頃のこと思い出して……」
ふとカウンターの奥に目をやると、ハルと目があった。彼は何も言わずに口角を上げただけで、そのまま徹二に何かを指示していた。彼のことはすっかり見慣れているけれど、イケメンが真剣に働く姿に、夏紀は今も見惚れてしまう。
「ねぇ、夏紀、オーナーと徹ちゃん、何してるの?」
カウンターの奥に呼ばれた徹二は、ハルの隣で真剣な顔をしていた。
二人が立っているのは調理場なので何かの料理をしているのは間違いないし、今までにも何度か見たことはあった。
けれど今のハルと徹二は、今までとは様子が少し違っていた。
「それ……言って良いのかな?」
再び夏紀がハルのほうを見ると、今度は彼は「いいよ」と言ってくれた。そのまま徹二についているハルを見たまま、夏紀は口を開いた。
「徹ちゃん、ハルに弟子入りしたんだって」
大学生の徹二は就職活動の時期になり、いくつかの企業の資料を取り寄せていた。
説明会に参加したり先輩の話を聞きに行ったり、夏紀の会社の話を聞いてきたこともあった、けれど。
最終的に彼が選んだ就職先は、ハレノヒカフェだった。
「テツ、それ本気? 期待するほど給料出せないよ」
と、オーナーであるハルに言われても。
「そうよ、徹ちゃん。私が言うのも変だけど、ちゃんとした会社に勤めた方が生活安定するよ?」
と、人生の先輩・恵子に言われても。
「私も時間あったら手伝うし、あとのこと心配しなくて大丈夫だよ」
と、夏紀に言われても。
「確かに、どこかの企業に勤めるほうが良い、とは思うんですけど、僕はこの店が好きなんです。料理なんかほとんどしたことなかったのに、いろんなこと教えてもらって、任せられるようにもなって……。離れたくないんです。副業禁止の会社も多いから、バイトは無理で……」
徹二の真剣な願いを、ハルも真剣に聞いた。
恵子に意見を聞いて、閉店後、ハルと夏紀は話しあった。
「ナツはどう思う? テツのこと」
「残ってくれると嬉しいけど、本当にそれで良いのかな……。外の世界を見た方が良い気もするし。給料も絶対良いだろうし。でも、いなくなると寂しいよね」
最後の一言に、ハルは複雑な顔をしたけれど。
悩んだ末に、徹二の願いを聞いてあげることになった。もちろんそれは、彼が両親にきちんと事情を話して、理解してもらうという条件付きだった。
「もし反対を押し切ってたら、解雇するから。テツの人生、狂わせたくないから」
「はい! さっそく今晩、話してきます! ありがとうございます!」
そして徹二は両親を説得することに成功し、ハルに弟子入りした。徹二の両親は彼の気持ちを知っていたのか、反対は全くされなかったらしい。