Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

第10話 イケメンからの依頼

 飲み会は数時間でお開きとなり、美咲は朋之と同じ電車で帰ることになった。裕人も最初は一緒だったけれど、先に電車を降りていった。会社近くに住んでいる華子は一人で電車に乗った。

「あんまり──話せんまま卒業したよな?」

 裕人がいなくなってから、最初に口を開いたのは朋之だった。週末ではあるけれどまだ終電には遠いので乗客はまばらなほうだ。

「そう、やなぁ……。常に視界にいた気はするけどね。一年ときも、名前しか知らんかったけど、隣のクラスやったから集会とかのとき橫にいたし……」
「えっ、そうなん?」
「並んでるの背の順やって……、クラスに山口君てもう一人いて、じゃれてたやろ? それで同じ名前の靴が、座ってたらいつも私のスペースに入ってきてた」

 それがとても鬱陶しくて、美咲が朋之に持った最初の印章は全く良くなかった。そのクラスにいた友人に愚痴ったことは今でも覚えている。二年で同じクラスになったと知って最初は嫌だったけれど、逆の方向に変わったのは彼がイケメンだったからだ。

「ごめんごめん、あのとき狭かったから……。卒業してからは、会ってなかったよな?」
「いや──、電車で見た気がする。何回か向かいに座ってたんちがう? はっきり顔見んかったから声はかけんかったけど」

 美咲のまさかの発言に朋之は驚いていたけれど、そうか……、と呟いてから話題を変えてきた。

「週末……日曜の昼から空いてる?」
「え? なんで?」
「紀伊さん、ピアノやってたやろ? 今でもやってるん?」
「まぁ……中学のときから習ってはないけど……たまに趣味で弾くくらい」
「俺──アマチュアの合唱団に入っててさ」

 中学の頃から、朋之は歌が好きだった。クラブはバスケをしていたけれど、合唱コンクールの集計中に歌う有志合唱団に彼は入っていた。美咲もそれに入っていて、伴奏も何度かした。ちなみにそれには華子もいた気がする。

「大きい会場でやることは滅多にないんやけどな。伴奏してた人が辞めるらしくて、やってもらえる人探してるんやけど」

 依頼されたことは嫌ではなかった。

「でも私……、山口君のテストで失敗したやろ? あの頃から怖くなって」

 学校の歌のテストのとき、コンクールの課題曲の一部を美咲がクラスの人数分弾いていた。簡単なのでだいたい順調に出来ていたけれど、朋之の伴奏をしたときに間違えて止めてしまった。

「あぁ……。そんなことあったなぁ。別に気にしてないで。あのあとも弾いてたやん」
「私が気にしてるんやけど……」
「あのときの、篠山(しのやま)先生って覚えてる? 先生がたまに聞きにきてる」

 その名前を聞いて、美咲は言葉に詰まってしまった。
 篠山のことはもちろん覚えているし、スマホではなくガラケーを使っていた頃はメールもしていた。一週間に一度、週末に会っていた。大学生になってから再会して近況を少し知っているのは、篠山のことだ。
「先生──私のこと何か言ってた?」
「いや? 何も言ってないけど。何かあったん?」
「たぶん……私のこと良く思ってないと思う……」

 大学生のとき、ポストに一枚のチラシが入っていた。よくあることなのでチラッと見て捨てようとしたけれど、美咲はすぐに思い止まった。近くのお寺でコンサートがあるようで、出演団体『江井混声合唱団』通称『えいこん』の代表が篠山の名前だった。
 中学のときは良くしてもらったので、卒業して会えなくなったのが少し寂しかった。コンサートに行って、終演後に篠山に声をかけた。それから何ヵ月か経ってから、美咲はえいこんに加わった。

「あ──やってるん?」
「ううん。入ってしばらく、歌ももちろんやけどピアノもやってて、コンサートとかも行ってたんやけど……就活の頃から休みだして、新年会も声かけてくれたけど行かんかって……フェードアウトした」

 悪いのは、勝手に辞めた美咲だ。辞めるときは退団届けを出すようにと規約に書いていた気がするし、次のコンサートで使うからと配られた楽譜も、ちょうど美咲が休みがちの頃だったのでお金を払えていない。

「謝らなあかんのやけどね……」
「それは、気まずいな」

 そんな事情がないにしても、美咲は合唱団の伴奏を務める自信はなかった。学校で歌っていたのとはレベルが違うので楽譜ももちろん難しかったし、大勢の人の前で弾くことも緊張しっぱなしだった。メンバーの平均年齢は美咲より下だったけれど、コンクール一般の部で金賞を取る団体だったので余計にプレッシャーだった。

「俺のとこは、イベントのステージとかで歌うくらいやから、難しくはないと思うで。なんやったら、今度先生来たら、久々に会った、ってそれとなく名前出してみよか?」
「うん……お願い……」

 伴奏を引き受けるかは考えてから返事をすることにして、美咲は朋之と連絡先を交換した。

「もしかしたら、ヒロ君とこで会うかもやけどな」
「山口君いつも週末に行ってんの?」
「そうやな。たまに、仕事帰りに寄ったりするかな」

 やがて駅に到着したので、美咲と朋之は改札の前で別れた。朋之が去っていくのを見送ってから、美咲も外に出る。電車に乗ったときに航にLINEしていたので、迎えの車を探す。

 ロータリーに既に停めてあった車を見つけ、助手席に乗った。車を使うと、すぐにマンションに到着する。

「美咲……何かあったんか? 深刻な顔して」
「え? あ、ううん。……歌の伴奏やれへんか、って。返事は保留してるんやけど」

 朋之からの依頼を航に話すと、反対はされなかった。いつも週末に二人で義実家に行っていたのが、美咲はピアノの練習をする日々に変わるかもしれない。義実家に行っても特に用事はないし、ピアノを弾いているほうが美咲はよっぽど楽しい時間になる。

 それでも朋之と篠山の存在がどう影響するのかわからなくて、美咲はなかなか答えを出せなかった。
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